北陸新幹線延伸に湧く敦賀。歴史地理学者がよみとく水陸交通の時代的変遷

南出 眞助

南出 眞助 (みなみで しんすけ) 追手門学院大学  名誉教授専門:日本および世界の港湾都市に関する歴史地理学

北陸新幹線延伸に湧く敦賀。歴史地理学者がよみとく水陸交通の時代的変遷
出典:Adobe Stock

2024年3月16日に北陸新幹線金沢―敦賀間が延伸開業します。新たな終着駅となる福井県南西部の敦賀は、過日NHKの教養バラエティ番組『ブラタモリ:敦賀~すべての道は敦賀に通ず?~』でも紹介されたように、古代には海外から使節を迎える重要な国際港であり、奈良・京都の都に物資を運ぶ重要な交通拠点でした。 今回は同番組で案内人を務めた南出眞助 名誉教授に、水陸交通の面で敦賀の果たしてきた役割、そして北陸新幹線の延伸開業に向けた想いを、歴史地理学の観点からお話しいただきます。

参考:JRおでかけネット>北陸新幹線 金沢-敦賀間 開業

港湾から見る敦賀

港湾から見る敦賀
出典:Adobe Stock | 敦賀湾付近の空撮写真

古代から大陸に開かれた玄関口・敦賀の果たしてきた役割

(編集部)南出先生は歴史地理学者として、港湾都市の研究を多くされてきました。特に敦賀は卒業論文からの研究対象だったそうですね。ブラタモリから案内人のオファーが来たのも、「敦賀の歴史地理なら南出先生」という推薦があったからだと伺っています。

(南出先生)1974年度の卒論として提出し1978年に雑誌に掲載された「古代敦賀津の中世的変容」という論文ですね。ここで発表した古代敦賀津の復原図が、『敦賀市史』や『福井県史』に掲載されたことで、私の推論が定説のように扱われました。ただし50年近く前に書いた論文ですので間違いもありまして…。去年3月に大学を退職して時間ができたので、論文を改訂しようと色々調べ直していた時に、NHKからのオファーがあったんですよ。新しい情報を発信できるちょうどいいタイミングでした。

(編集部)ブラタモリでは先生を案内人に「古代、敦賀は海の道で栄えた」と紹介されていましたね。

(南出先生)古来より外国との窓口となるのは港でした。特に古代は中国や朝鮮半島諸国との外交や交易が主でしたから、日本海側の港が重要だったわけです。当時の朝廷(政府)は九州の大宰府を外国からの窓口と決めていたのですが、航海術が不安定な時代でしたので、秋田などの東北沿岸にたどり着く外国船も多かったんです。

特に渤海という現在の中国東北部から朝鮮半島北部、ロシアの沿海地方にかけて存在した国家は、727年から約200年にわたり日本に外交使節団を派遣していたのですが、漂着することが多かったんですよ。すると日本も、苦労して東北にたどり着いた渤海使に「九州まで行け」とは言い難いでしょう? そこで日本海沿岸部のちょうど真ん中あたりにあった敦賀が、海外の窓口「ゲートウェイ」として選ばれたのです。古代は港のことを「津」と呼んだのですが、このようにして「敦賀津」は発展しました。敦賀は平城京・平安京といった都まで3、4日あれば行ける距離でしたから、それも都合が良かったわけです。

(編集部)外国人を受け入れるゲートウェイだったということは、入国審査などもしていたのでしょうか?

(南出先生)もちろんです。古代の史料によると、「存問使」と呼ばれる役人が身元確認や所持品検査、さらには伝染病検査などを実施していました。また渤海使は日本の天皇に謁見して渤海王の国書(手紙)を届けるのが最大の役目でしたから、その内容が本物かどうかも慎重に検査していたわけです。ですから入京許可がおりるまで数ヶ月かかることもありました。

そのため、9世紀頃の敦賀には、渤海の使節団を迎えるための迎賓・宿泊施設「松原客館(まつばらきゃっかん)」がありました。この施設では時には船2隻分の乗組員…最大100人以上もの渤海使たちの宿泊や食事を世話していたわけです。地元敦賀の負担は大変なものだったと思いますよ。

研究であきらかになった古代敦賀津の復原図

(編集部)ブラタモリでは先生が復原された古代敦賀津の図面が紹介されていましたね。あれはどのように復原されたのでしょうか?

(南出先生)文献資料や地形・土質調査の成果を踏まえて復原しました。一番確実なのは、考古学の発掘調査で遺構・遺跡が出てくることですが、発掘調査というのは掘れる場所が非常に限られてくるので、港湾の場合は難しいのです。そこで、地理学の知見や自然科学の空間的把握・復原によって色々なことをあきらかにしています。古代敦賀津についても、中・近世の古文書、絵図、さらに空中写真やボーリングデータなどのエビデンスを用いて場所を推測していきました。 たとえば文献では、敦賀の氣比神宮に「氣比宮社記」という近世文書があるのですが、そこに収集された言い伝えに「いつ頃までここは沼地だった」と言った文章が残されていまして…。そうした情報も元に、入江の範囲を推論していったのですよ。

また一番の肝となるのは、私が敦賀津だと推定した場所が、潟湖(ラグーン)ないしは沼地であったという証明です。2011年には、私が「ここまでが敦賀の入江だったんじゃないか」と論文で発表していた場所から戦国時代の城跡が発掘されました。その発掘担当者だったのが、ブラタモリで私と共に案内人を務めた敦賀市教育委員会の中野拓郎さんです。彼は城跡発掘に伴い、現在の海抜何mまでが水面であったかという発掘データを出してくれたのですが、それが私の説の大きな傍証になりました。

(編集部)先生の1978年の復原図によると、古代敦賀津の入江に松原客館があり、北陸道の出発点である松原駅が少し離れて存在していますね。

出典:『福井県史』通史編1 原始・古代
出典:『福井県史』通史編1 原始・古代

(南出先生)はい、松原駅というのは、もちろん鉄道の駅ではなく、馬を用意していた道路交通施設です。敦賀津と松原客館と松原駅は近くにあったという説もありますが、私は少し離れていたと考えました。というのも、私たち歴史地理学者は、時代や場所を超えた共通点から発想することが多いからです。たとえば明治政府が最初に横浜の港と東京を結ぶ鉄道を作りましたよね。これには港から来た外国人を極力日本人との接触をさけて東京まで運ぶという目的もあったんです。それと同じで敦賀も、船着場である入江と外国人を収容する松原客館、船の積荷を馬に載せ替える松原駅は、少し距離を置いて設置していただろうと考えたのです。

(編集部)国内向けのルート(陸路)と、国際向けの窓口(入江)を少し離していたのですね。密入出国の水際対策でもあったのでしょうか?

(南出先生)そうです。中国・朝鮮・渤海の人々は日本人と似ていますので、服装を変えて村人に混じってしまえば簡単には見分けがつきませんから、密入出国対策は重要でした。敦賀の海岸には砂丘や浜堤(ひんてい)という砂の高まりがありまして、その内側に大きな入江が広がっており、そこに船を停泊させることもできました。離れた場所からでも船が泊まっているのは見えるけど、容易には近づけない。こういう場所の入江を利用することが、積荷の盗難や密入出国を見張るためには大切だったわけです。

古今東西、港湾にはあらゆる「不正・非合法」が集まるものです。港には多様な臨時雇用の労働者が集まりますので、アウトローな人々が混じりやすいんですね。私はロンドンのテムズ川のドック(船の荷揚げ場)についても研究したことがあるんですが、税関を通る前になんとか安く買い上げようとする業者や、荷を盗もうとする者、さらには役人の不正についての資料が残されていて、大変興味深かったです。こういうところが、港湾の歴史地理学を研究する面白さの一つですね。

陸路から見る敦賀

陸路から見る敦賀
出典:Adobe Stock | 敦賀鉄道資料館(旧敦賀港駅舎)

日本海側初の鉄道が敷かれた敦賀

(編集部)先ほど「松原駅」の話が出ましたが、敦賀は古代から北陸道の入口にあたりました。陸路から見ても重要な場所だったのでしょうか?

(南出先生)そうですね。まず古代日本では交通網を五畿七道で区分していました。五畿は国の中心部つまり畿内という意味で、大和、山城、摂津、河内、和泉です。七道は、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道ですね。これは現在も国道1号線は東海道、鉄道の東海道本線や東海道新幹線といったように、国の中心から四方八方に広がる交通体系の呼称として受け継がれています。

五畿七道が定められたのは奈良時代ですが、当時から敦賀は北陸道の南の入口にあたる場所として重要な地位にありました。国がなぜ五畿七道の交通体系を定めたかというと、税の徴収に関係します。古代は「租庸調」という税制度がありました。このうち「調」は各国の特産物や工芸品が基本なのですが、越中や能登・加賀・若狭といった北陸の各国から集められた調は船で運ばれ、いったん敦賀に集められたと考えられています。そこから陸路を琵琶湖まで運び、大津そして京へと運ばれるというシステムでした。

(編集部)敦賀は陸運と海運を結ぶ要所でもあったのですね。

近世の物資と文化を繋いだ「動く総合商社・北前船」との関わり

(南出先生)また敦賀を語る上で外せないのが、江戸時代中期から明治時代にかけて、北海道・蝦夷地から日本海側を往来し活躍していた北前船です。当初は敦賀で荷をおろして年に2往復していたのですが、消費地の大阪・江戸までの陸運コストを考慮した結果、北海道から大阪の年1往復となりました。というのも、敦賀ですべて荷降ろしするのではなく、日本海側の鳥取や島根、下関に寄港して瀬戸内海を通って大阪まで行商した方が、各地で仕入れと販売を繰り返すことで利益を上げられるからです。これはまさに商社的な発想です。

パリ行きの連絡列車が運行開始。敦賀を走る鉄道は海を越えた

(編集部)時代は飛びますが、鉄道に関しては、明治に入り日本初の鉄道が横浜―東京に敷かれたのを皮切りに、明治15(1882)年には、国内4本目かつ日本海側では初の線路が米原―敦賀に敷かれたようすね。

(南出先生)ブラタモリでは、さらに明治45(1912)年には「欧亜国際連絡列車」の運行が始まり、新橋(東京)―金ヶ崎(敦賀)間を直通列車が走り、敦賀港から連絡船でウラジオストク(ロシア)へゆき、そこからシベリア鉄道でモスクワを経由してパリ(フランス)まで行くという路線が確立したと紹介されていました。 ここは私の担当部分ではないので専門外のお話になりますが、東京からパリ行きの切符が買える時代があったわけです。それまで海路で40日かかった東京―パリ間が、鉄道を中心に敦賀港から連絡船でウラジオストクまでの航路を挟むことで、17日間で結ばれるようになりました。

このように敦賀の港は、明治に入ってからも依然と重要性を保っていました。それは明治40(1907)年に明治政府の港湾委員会が、「日本の重要な国際貿易港は、横浜、神戸、敦賀の3港および関門海峡」と指定したことにもあらわれています。

また時代背景を考えるとよりわかりやすいのですが、明治38(1905)年に日露戦争が終わり、シベリア鉄道を日本人が安全に通行できるようになったわけです。さらには明治・大正・昭和にかけて、「韓国併合」(1910年)、第一次世界大戦(1914-1918年)、「満州国建国宣言」(1932年)へと突き進んでいきます。その意味でもやはり日本海側の港というのが国にとって非常に重要であり、敦賀の存在感は大きかったんです。1937年に敦賀は市政を施行しました。

敦賀の現状と展望

日本海側の敦賀はフィーダー港へ転換

日本海側は「裏日本」へ。敦賀はフィーダー港へ転換
出典:Adobe Stock | 金ヶ崎城跡の月見御殿から望む敦賀湾

(編集部)古代から第一次世界大戦までは、日本海側が海外に向けた日本の玄関口だったということがよくわかりました。ですが現在では、貿易港も太平洋側が多いように思います。なぜ日本海側の地位は下がってしまったのでしょう?

(南出先生)そうですね。理由の一つは、第一次世界大戦あたりから日本の重化学工業が盛んになってきたことです。このとき重化学工業の拠点がどこに置かれたかというと、太平洋側の大都市…東京や大阪に近いところに臨海工業地帯が作られていきました。

実はそれより以前に工業が栄えていたのは日本海側でした。たとえば富山は初夏まで雪解け水が豊富な庄川・神通川などの水力発電が利用できるため、電気代がすごく安かったこともあり早くから工業で栄えました。ですが、日本海側は砂丘地帯が多いので大規模な港湾や埋立地の造成が難しいのです。一方で太平洋側は干潟・三角州が発達しているため、ゾーンで広がる工業地帯を作ることができたんです。

(編集部)そして残念ながら敦賀も、国家として重要視される拠点ではなくなっていったのですね…。ちょっと寂しいです。

(南出先生)しかし、経済活動の面で見ると敦賀はまだまだ重要な拠点です。飛行機や鉄道が発達したとはいえ、それらはあくまで旅客輸送が中心です。貨物輸送については国際貿易の大半が今でも海上輸送であり、海運によって私たちの生活は支えられています。

そして海運では目的地に直行するのではなく、中継地点となる港(ハブ港)に立ち寄り積荷を入れ替えながら効率的に貿易をしていきます。これは北前船の発想と同じですね。特に昨今では東アジアのハブ港といえば上海(中国)や釜山(韓国)が大きな存在で、そこから小さいコンテナ船で敦賀をはじめとする日本海側の港に物資が運ばれています。

ハブ港から枝分かれした港をフィーダー港と呼びますが、現在の敦賀は国際貿易のフィーダー港として海運の窓口となっています。敦賀に到着した積荷をトラックなどで北陸地方に運ぶ形で、日本海地域の経済活動に貢献しているんですよ。敦賀〜苫小牧を結ぶフェリーでは、トラックドライバーが寝ている間に運んでくれるので、時間外労働が軽減されるメリットもあります。

北陸新幹線の延伸開業と敦賀のこれから

北陸新幹線の延伸開業と敦賀のこれから
出典:Adobe Stock | 北陸新幹線の新たな終着駅となる敦賀駅

(編集部)ここまで、敦賀が海と鉄道と歩んできた歴史を先生に紐解いていただきました。最新のトピックとして、今年3月に敦賀は北陸新幹線延伸で関西側のターミナル駅になりますね。今後の更なる延伸も含め、新幹線開通による人の流れの変化が期待されるのではないでしょうか?

(南出先生)期待に湧いていたところに能登半島地震が起こり、安易にお祭り騒ぎに乗れない気持ちが正直あるのですが、私も研究者として敦賀には大変思い入れがあります。北陸新幹線延伸により、能登半島をはじめとする石川県や敦賀のある福井県、そして北陸全体が活性化し、復興につながってゆけば良いと思います。

交通体系の変化は日本列島の地域構造を変える可能性があります。ただし敦賀市は6.3万人・小浜市も2.8万人の人口規模ですから、地域住民の利用だけでは大きな経済効果は望めません。今回の延伸開業に伴う地域の市街地開発や観光戦略においては、通過点にならない工夫が期待されると考えています。

(編集部)通過点にならない工夫ですか。

(南出先生)そうです。たとえば、北陸新幹線の西の終着駅である敦賀を、単なる乗り継ぎ駅にさせないことが大事ではないでしょうか。現在は敦賀駅での新幹線から在来線(サンダーバード)への乗り換え時間が8分という点が報じられているようですが、これでは通過点であることを強調するばかりです。敦賀も新幹線開通に向けて駅前や市街地を整備していますので、途中下車を促すプロモーションや、駅ナカで買い物を楽しめるような仕組みがあると良いと思いますね。

これはあくまで私の考えではあるのですが、敦賀の新幹線から在来線に向かう移動通路・コンコースに、北陸の土産物を集めた賑やかな出店ゾーンを作り出すのは無理でしょうか。能登半島をはじめとする石川や富山、福井の土産物が駅ナカに揃うなら、ここでまとめて買って帰ろうとなりますよね。そうすれば乗り継ぎ時間を気にせず「1本遅らせて、次のサンダーバードに乗車しよう」という発想で、買い物を楽しんでもらい、北陸全体にお金が落ちるのではないでしょうか。

(編集部)駅ナカを充実させる作戦ですね! そうなったらいっそ途中下車して、敦賀の美味しいものを食べてから関西へ帰りたいと考える人も増えるかもしれませんね。

(南出先生)JRの乗車券は片道100kmを超えると途中下車が可能です。金沢駅から敦賀駅までは100kmを超えますので、距離だけをみると途中下車ができますね。ただし特急券は途中下車をすると前途無効となりますので、新幹線と在来線(サンダーバード)で別々に特急券を買うと良いでしょう。 理想は、途中駅の改札を出てもOKな当日有効自由席特急券をJRが作ってくれることでしょうか。また敦賀の地元側でも、記念イベントや改札から一旦外に出させるための工夫について議論されているようですが、関西まではなかなか伝わってこないですね。

まとめ

まず、敦賀が「古代から日本の玄関口だった」というのは驚きの事実でしたが、古代・都が置かれた関西と、東アジア諸国からの位置関係、そして運輸における水運の役割を鑑みると、必然の場所だったのだということがわかりました。ちなみに現在、NHKで放送されている大河ドラマ「光る君へ」では、紫式部らが都から越前国へ下向する際に「松原客館」の場面が登場するそうです。 古今東西の文化や経済、政治をつなぐ水運と港の役割は、時代や商圏の移り変わりに伴い、今後も変化し続けるものなのでしょう。そうした中、現在も敦賀は、経済的な物流の拠点の一つとして存在感を維持し続けています。今春の北陸新幹線の沿線開業によって、人の流れも変化していくはずです。能登半島地震からの復興も含め、注視したいと思います。

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岡田 美奈子

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プロフィール

南出 眞助

南出 眞助 (みなみで しんすけ) 追手門学院大学  名誉教授専門:日本および世界の港湾都市に関する歴史地理学

1977年3月 京都大学大学院修士課程修了後、同大学教養部助手、佐賀大学教養部講師・助教授を経て、1987年10月より追手門学院大学に着任。1988年4月から2015年3月まで本学オーストラリア研究所 研究所員・所長(2003年〜2011年)。1993年 〜1994年長期在外研修(イギリスおよびオーストラリア)。

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