今回も引き続き、テレビドラマにもなった池井戸潤氏の人気小説『下町ロケット』からの話題です。前回の記事「『下町ロケット』ガウディ計画のリアル。真野賢作のモデルは産学連携コーディネーターだった!?」では、『下町ロケット2 ガウディ計画』から産学連携コーディネーターの存在を取り上げました。
今回のテーマは、シリーズ第1作で主人公・佃航平が率いる佃製作所の存続を揺るがした知的財産(知財)についてです。作中では、発明の独占的使用を保障される特許(知的財産の一つ)がメーカーの生命線であることが描かれました。研究開発から生み出された画期的な発明も、企業の経営戦略に反映されなければその価値は生きません。『下町ロケット』の佃製作所が戦略の甘さによって大きな危機を迎えたエピソードは、実際にあり得ることなのです。
実はこれまで、多くの大学もこの知財に関する取り組みが弱く、技術力のある大手メーカーからは指摘を受けていたそうです。そこで登場するのが、知財に関する深い知見を持つ知的財産アドバイザー。
今回は大手総合電機メーカーで長年技術開発に携わり、知財の持つ社会的価値を知り尽くした追手門学院大学所属・田中康宣知財アドバイザーに、大学と社会の間に広がる知財の課題、そして知財アドバイザーの役割を聞きました。
INDEX
世に生み出した人の権利を守る「知的財産権」
知的財産、知的財産権とは?
(編集部)まずは知財とはどういったものか教えてください。
(田中さん)知財とは、人の知的創作活動によって得られた財産的価値を持つ成果の総称です。そして知的財産権とは、知財の中でも法律で定められた権利や法律上保護される権利のこと。特許権や著作権といった言葉は、一般的にも認知度が高いかもしれませんね。
日本で知的財産権と定義されている主なものには、産業の発達に寄与することを目的に機械や医薬品などの発明を保護する「特許権」、物品の形状や構造などに対する技術をカバーする「実用新案権」、書物や絵画、楽曲などに対する「著作権」、物品や建築物等のデザインなどの「意匠権」、植物の新品種に関する「育成者権」、商品・サービスなどに使用するロゴマークなどの「商標権」、といったものがあります。
また一口に知的財産権といっても、特許権や実用新案権のように所定の手続きを経て権利を取得するものもあれば、著作権のように作品の誕生とともに自動的に権利が生じるものがあります。
『下町ロケット』が描いた知的財産権をめぐる攻防
企業同士の知財訴訟はよくあること!?
(編集部)池井戸潤氏の小説『下町ロケット』では、知財の一つ、特許に関する企業戦略にスポットが当たりました。主人公の経営する佃製作所が、ある製品の特許不備によってピンチを迎え、別の特許によって危機を脱したという印象です。
(田中さん)佃製作所の特許の不備に気づいた大手ライバル企業が、自社が保有する似た特許を根拠に特許侵害を訴えて、中小企業である佃側の譲歩を引き出そうと猛攻をかけました。これは佃製作所の特許の取り方が甘かったがために、つけいる隙を与えてしまったと言えます。
ことの発端は、研究者でもある主人公が「画期的な発明だ!」と深く考えずに取得した特許でした。マーケティングや活用方法を検討することなく、開発のコアの部分だけを特許にしていたんですね。
しかし本来特許権とは、独自の発明や技術を保護し、第三者に勝手に使われないための権利です。特許の取り方が甘いと、第三者による模倣……つまり特許権を侵害しない程度の近しい商品が出たり、似た内容の特許が取得されたりして自分の首を絞めることになる。
作中でもせっかく画期的な発明で特許を取得していたのに、いざ製品を展開したところ、後発のライバル企業の特許を侵害する可能性が出て訴訟を起こされた、という経緯でした。
(編集部)その後の展開では、佃製作所に知財専門の弁護士が現れて、見事なフォローで巻き返しましたね。
(田中さん)佃製作所が保有する特許を社会実装できる形で補強し、逆にライバル企業の商品を調べ上げて、佃製作所に対する特許侵害を見つけて反訴しました。これは実社会の企業間、特に同業者間の知財訴訟はよくあることで、最終的に「どちらがより多く特許侵害をしているか」という争いに持ち込むんです。だから企業は一つでも多くの特許を持とうとするし、他社からつけ込まれないように知財戦略を練ります。
また特許権は国別(一部地域別)の独立した権利であることから、海外の全く知らない企業から訴訟を起こされるケースもあって、その訴訟の舞台は製品を販売している国になります。ですから企業は、さまざまな国(地域)ごとに個別に特許申請を行います。 作中では補強した特許によって、最終的にロケット開発を目指す大手重工メーカーからの協力依頼へと繋がりましたね。
取得するなら「強い特許」を
(編集部)知財は企業を守る盾にもなるんですね。
(田中さん)知財とは、単に権利を取得すれば良いというものではありません。経営上の利益を生むものにすること、かつ、自らの権利も守ることが大事なんです。知財のマネジメントは企業の経営戦略に直結しますから、大手企業では専門チームを抱えている場合がほとんどです。
特にメーカーの生命線である特許は、社会実装や製品化を含め、どう役立てていくかを見越して「強い特許」にする必要があります。
(編集部)「強い特許」とはどういったものをイメージすれば良いのでしょうか。
(田中さん)強い特許とは、技術的範囲(独占が保護される範囲)が広く、緻密に定義された特許です。企業の特許は隙間なく・広く抑えておかないと、その隙間や周辺技術を競合他社から狙われることになりかねません。先々のありとあらゆるリスクを想定した権利取得が必須です。
たとえば、ある分野の製品を生産する時に、その技術使用を回避することができないような特許は強い特許と言えます。
メーカーでは製品開発の際、特許庁等の公的な特許検索サービスで他社の特許を検索します。しかし自社のアイデアが先行の特許を侵害するケースがある。通常はその特許を使わずに済む迂回策を考えるのですが、迂回できずに新規開発に数年かかるような場合、その間は事業参入できないことになりますよね。すると、特許使用料を払い付加価値を付けて製品化するか、事業参入を諦めるかという経営判断になります。特許権を持っている側から見ると、これが特許の強みです。
他社が同じものを作れない、つまり強い特許とは「避けられない特許」とも言い換えられますね。そのため企業では、特許出願にあたって技術面やマーケティング面など多角的に検討して「強い特許」に仕上げるのです。
大学が持つ特許は使えない!? 学術研究と知的財産の関係
研究業績として存在感を増しつつある特許
(編集部)現在、大学の研究と知財はどういった関係にあるのでしょうか。
(田中さん)大学は日々、新しい技術や特許、意匠などの知財が生み出される場です。 研究業績としての知財に対する大学の優先度は年々高まっていますが、大きな存在感を放つ存在といえば、やはり特許でしょうか。
大学側は研究者に対する評価として、これまで長く学術論文に重きを置いてきました。しかし近年はそれに加え、特許出願数も指標の一つとなっています。
これには国が産学連携を推進していることが関係しています。十数年前から文部科学省は、大学研究の社会還元を目的に知財の出願・保有を推進し、その領域や数によって大学を評価しています。つまり、知財の保有が研究力のある大学と評価される一つの柱になっている。研究者にとっては、研究費用調達の審査でも出願数は結果を左右する重要な要素です。こういった流れもあり、大学も研究者も、特許など知財に対する意識は高まりつつある風向きです。
特に特許はものづくりが前提になることが多く、理系の大学、学部が大半です。理系領域に強い大学や学内発のベンチャー起業を支援している大学では、すでに特許出願の支援組織があったり、知財業務の専門家である弁理士を付けたり、またセミナーを定期的に開いたりという仕組みを築いています。
権利は誰のもの?
(編集部)大学でも特許への取り組みが進んでいるんですね。ちなみに、研究者が取得した特許権は研究者のものなのですか?
(田中さん)基本的に発明者に権利があり、「権利を持つものしかその権利を行使できない」と特許法で規定されています。
そのため、大学や企業が特許を取り扱おうとする場合、発明者から権利を委譲してもらう必要があります。企業であれば、雇用契約書で「発明の権利は会社に譲渡する」と規定されているケースがほとんどですね。しかし現状として、大学ではそういった部分が未定義であることも多いようなので、知財の啓発も含めて組織として一元的に管理・活用を図るための整備の推進が求められています。
(編集部)研究者にとって特許権を譲渡するメリットはあるのでしょうか。
(田中さん)研究者にも権利を譲渡するメリットはあります。出願にまつわる手続きや出願費用の管理を所属機関に任せられること。さらに特許取得後に産学連携などで経済的価値に繋がれば、対価を得ることもできます。
また産学連携にあたって、企業はリスク管理の観点から個人とは契約しません。大学から特許を譲り受けたりライセンス契約を交わしたりすることになるので、特許技術を広く社会還元しようとするならば権利の譲渡は必須といえます。
大学が持つ特許は使えない!? 大学が直面する壁とは
(編集部)では産学連携の観点から、大学が持つ特許は魅力的なのでしょうか。
(田中さん)それがそうとも言い切れません。大学とは本来、知的好奇心に基づく学術的探究を行う場です。先ほど大学全体で特許取得推進の風向きがある、とお話ししましたが、大学の知財は研究成果を形にすることに主眼が置かれがちで、製品化を前提としていないケースが多いのです。いわば「弱い特許」が多い。
一方、企業にとって特許は「製品化してナンボ」の世界です。 企業が求める特許とは経済的価値のある発明技術であり、大学が持つ特許は研究成果としての称号。ここに大きな隔たりがあるんです。
大学運営における特許への優先度は高い。高いけれども、企業からすると使える特許が少ないというのが実情です。
産学連携の観点から魅力的な特許、研究者とは?
(編集部)企業から見たときに魅力的な特許、研究者とはどういったものでしょう?
(田中さん)共同研究する相手としては、商業的な活動に興味があるかどうかは重要なファクターになります。自分の研究にしか興味がない研究者は、企業の方を向いてくれない可能性がありますよね。成果を社会実装することに積極的な人材が求められます。
それは特許の取得数や、特許自体が社会実装を前提としたものかどうかも一つの目安。企業が研究内容に興味を持つきっかけになります。
知的財産戦略は「攻守共存」が鉄則
(編集部)大学が特許など知財を強みとしていくためには、どういった点に注力することが必要でしょうか。
(田中さん)研究者が知的財産権を取得することについて、大学側がもっと積極的にサポートし、業績として認めていくことではないでしょうか。そのためには体制づくりや評価制度の見直しが必要でしょう。
特に文系学部は特許と縁が薄い傾向があるためか、知財に関する項目が評価制度に組み込まれていないこともあります。
知財戦略は、社会実装を企図した攻めの姿勢と、第三者からつけ込まれないための守りの姿勢が揃ってこそ強みがあります。大学においても、この攻守共存の姿勢を醸成していくべきだと考えます。
知的財産アドバイザーという仕事
知的財産アドバイザーってどんな人?
(編集部)田中さんは追大に知的財産アドバイザーとして着任しましたが、どういった役割を担っているのですか。
(田中さん)主に3つの役割を担っています。知的財産権取得へのサポートと、知財戦略に対する取り組みを学内に浸透させること、そして企業と研究者の橋渡しです。
まず知的財産権取得については、特に研究者の成果を「強い特許」にすることがメインです。研究内容の製品化を見据え、企業にとって使いやすい形にしておくということですね。 理想としては、研究者がアイデアを思いついた時点でまず既存の特許の調査・分析をしてオリジナリティのある特許にする。より良い特許にするために、研究の方向性について進言するケースもあります。
次に、知財戦略に対する取り組みを学内に浸透させること。本学は人文学系の学部が主体ということもあり、これまで産学連携や知財に関する仕組みづくりが進んでいませんでした。そこで体制づくりを進めています。
最後に、企業と研究者の橋渡し。特許に関連して、産学連携コーディネーターのように企業と研究者の橋渡しをすることもあります。研究者がやりたい研究と、企業が求めるものとをマッチングさせて、経済的価値のある方向にまとめる役目です。本学でどんな研究が行われているかを広く知ってもらうため、企業を訪問することもあります。
求められる能力とは
(編集部)かなり専門性が求められる仕事のようですが、大学の知的財産アドバイザーを務めるにはどういった能力が求められるのでしょう?
(田中さん)まずは知的財産権の実務知識。そして研究に対する理解力、市場を見渡すマーケティング能力が求められます。すべての知財が実用化に結びつくわけではないので、先行投資的な部分もありますが、研究と市場のバランスを見極める力量が問われるということです。そのためには、どの企業がどういった特許を持っているかの知識も重要ですね。
私自身はメーカーの研究部門出身で、特許関連の実務に携わってきた経験が生きているのですが、近年は知財マネジメントのプロを養成する学部を設置する大学もあって社会的ニーズの高まりを感じます。
知的財産から文系大学のイメージを変えていく
(編集部)追大の知的財産アドバイザーとしてどんな展望を描いていますか?
(田中さん)本学は心理学部に人工知能・認知科学専攻がありますが、他校では人工知能(AI)領域は工学部にあることが多いので、本学のこの特徴は企業から注目されています。この強みを知財の点からさらに強固なものにしていきたい。私の着任以来、すでに人工知能に関する特許の話をいくつか進めています。
また2022年4月からは文学部 美学・建築文化専攻がスタートします。建築デザインや設計を専門とする教員もいるため、知的財産の一つである意匠の登録なども推進していきたいと思っています。
知財マネジメントは、実績を重ねるほどに、次の研究課題や企業との共同研究・実験に繋がる話が見えてきます。追大はそのチャレンジのために産学連携コーディネーターの辻野さんや、知的財産アドバイザーとして私を着任させ、体制づくりに取りかかりました。 今はまだ知財といえば理系学部が強いと思われがちですが、そのイメージを追大から覆していきたいと思っています。
まとめ
大学における特許などの知財戦略は、実用化を見据えた攻めの姿勢と権利を保護するための守りの姿勢、この2つがあってはじめて強みとなっていくのだと理解しました。 特に特許は取得するだけでなく、企業による製品化を通して、社会や人々の暮らしを豊かにできるという観点は新たな気付きでした。
大学の主な機能として研究・教育・社会貢献があります。これらをバラバラで展開するのではなく、研究と教育の成果が実用化によって社会に貢献するという一連の流れで捉えると、知財アドバイザーと産学連携コーディネーターの果たす役割は大きいといえます。
また逆説的ではありますが、そういった人材を配置する大学は社会貢献に注力する姿勢の一端が表れている、ともいえそうです。