水泳といえば、子どもから大人まで年齡問わず楽しめるスポーツ。オリンピックや世界水泳のメディア中継はいつも大勢の人々の注目を集めます。中でも速さを競う競泳は記録競技の花形ともいえ、これまで多くのスター選手が誕生してきました。 公益財団法人日本水泳連盟のデータによると、競泳人口はおよそ20万人。世界と勝負できるような実力ある選手を継続的に輩出していくには、競技全体のレベルアップが欠かせません。 そんな課題に科学的な面からサポートしているチームが、日本水泳連盟 科学委員会です。選手の泳ぎを分析・見える化し、迅速なフィードバックを行うことで、選手のパフォーマンス向上に一役買っています。
DX(デジタルトランスフォーメーション)の推進が叫ばれる現代において、世界としのぎを削りあう競泳界ではどのような取り組みが行われているのでしょうか。今回は、日本水泳連盟 科学委員として、過去から現在までの分析データのデータベース化に取り組み、競泳委員として日本代表選手のサポートも行っている、システム情報学が専門の林勇樹社会学部講師による解説です。
https://swim.or.jp/assets/files/pdf/pages/about/midterm-plan/midterm-plan.pdf
日本の競泳競技を支える仕組み
日本水泳連盟、そして科学委員会とは?
(編集部)競泳の観戦が好きでも、日本水泳連盟や科学委員会という名前にはなじみがないという方も多いと思います。まず、連盟の概要と林先生の所属する委員会はどのようなものなのですか?
(林先生)競泳を含めた日本の水泳界全体を統括・代表しているのが、公益財団法人 日本水泳連盟です。その使命は『センターポールに日の丸を!』と『国民皆泳』の2つ。前者は強化、すなわち競技力向上のためのサポートのことで、後者は人々の健康保持や増進、水難事故防止に貢献することを目的とした水泳の普及活動です。
私が所属するのは、強化を担当する競技力向上事業の中にある委員会。5つの競技の専門委員会(競泳、飛込、水球、アーティスティックスイミング、オープンウォータースイミング)と、メディカル面からサポートを行う医事委員会、科学的サポートを行う科学委員会の計7つがあり、その中の競泳委員会と科学委員会に所属しています。
今回お話しするレース分析プロジェクトは科学委員として進めているものです。
https://swim.or.jp/about/officer/
科学委員会のミッションは、データを駆使して選手をサポートすること
(編集部)競泳の科学的サポート。その舞台裏が一般の人の目に止まる機会はほとんどありませんが、具体的にどういったサポートを行っているのでしょうか。
(林先生)科学委員会のミッションは、科学的視点から競泳選手の成長に寄与すること。さまざまな手法を用いてレース中の選手の泳ぎを見える化し、パフォーマンス向上に効果的な「測り方・考え方・伝え方」を追求しています。対象とするのは、オリンピック選手や全国大会に出場する選手だけでなく全国の競泳選手です。
委員は大学研究者を中心に構成されていて、委員長はOTEMON VIEWにも登場している追手門学院大学の松井健副学長。私は大学在学中の2014年からレース分析プロジェクトに参画し、選手のレースに関するデータの一元化に取り組んでいます。
(編集部)大学在学中からとは長いですね。どういった縁があったのですか?
(林先生)もともと選手として泳いでいたんですが、大学1年の時にケガで泳げなくなってマネージャーに転身しました。学んでいた情報学を選手のサポートに生かせないかと考え、キーワードになったのが「データベース」です。選手のレースデータをインターネット上に保存し、どこからでもアクセスできるような仕組みを考えました。その成果を大学3年の時(2012年)に学会で発表したところ、日本水泳連盟科学委員会の方に誘われて、翌年(2013年)から協力スタッフとしてレース分析プロジェクトに関わるようになりました。
レース分析プロジェクトの歴史
30年にわたって展開されてきた「レース分析プロジェクト」
(編集部)先ほど「選手の泳ぎを見える化する」との話がありましたが、どういったデータがどのように役立つものなのでしょうか?
(林先生)選手が自分のパフォーマンスを振り返る上で一般的なのは、録画したレース映像を見る方法です。もちろんただ眺めるだけではなく「前回との違いはどこにあるのか」「練習の成果は発揮できたか」など、客観的な指標をもとに分析をすることが必要です。そこで重要になるのが、ストローク数や速度の変動、区間タイムといったデータですね。
科学委員会は過去30年にわたり、レース分析プロジェクトを実施しています。現在では、データは競技終了後すぐにWebサイトに掲載され、選手・指導者の競技力向上の一翼を担ってきました。
https://kizahashi.co.jp/JASF/PDF/
マンパワーによる地道な作業で成り立っていた!?
(編集部)今回はDXに絡めたお話ですが、競泳界では昔から選手にとってレース分析データが身近なものだったのでしょうか?
(林先生)いえ、今でこそ日本水泳連盟が主催する主要大会はほぼすべて(※)、レース分析を実施し、データベース化していますが、ちょうど私がサポートに関わり始めた2013年頃は、まだデータをクラウドに保存すること自体が普及していませんでしたし、デジタル技術やAIもまだまだという時代。選手のフォームやストロークのデータもデータベース化されておらず、振り返るとマンパワーに頼るところが多いデータ管理でした。
競技大会では、各選手のストローク数を数えるスタッフが数取器と呼ばれるカウンターを手にレースを観戦し、メモを取り、転記係と呼ばれるスタッフに伝えてエクセルのデータ表に入力してもらう。そして分析したデータを冊子にして公表することが基本で、個々のデータは誰かのパソコンの中に保存されている、という状態だったんですね。選手に十分活用されているとは言いがたい状況でした。
それが世のDXの流れもあり、データ一元化に向けて、2015年から大会ごとに新しい取り組みをプラスしてきました。最近、ようやく思い描いた形に近いところまで来られたというところです。
※ 日本選手権・ジャパンオープンは全レース、夏季年代別大会(全国中学・高校・日本学生・JOC)は決勝レースを対象としている(2022年2月現在)
データ一元化に向けた動き
まずは現場での映像データ提供からスタート
(編集部)それでは、林先生がデータ一元化に向けて取り組んできた内容について教えてください。最初に着手したのが2015年だそうですが……。
(林先生)はい。映像データのフィードバック手法開発に着手したのが2015年です。
まず試験的に実施したのが2015年10月のワールドカップ東京大会でのことでした。水泳界全体へのレース分析プロジェクトの浸透を意識して、出場選手を対象に、各選手にフォーカスしたレース映像(パンニング映像)を提供したところ……想像以上の反響で、選手側からの映像データに対する大きな需要を感じました。
ちなみにその際、データ転送に使用したのは、東芝社から発売されていた「TransferJet(R)」という近接無線通信技術を用いたデータ転送デバイスです。
(編集部)選手のコーチやサポートスタッフが映像を記録することは、よくあることのように思います。何が違うのでしょう?
(林先生)スタンド席から手持ちの携帯端末で撮影しても映像のクオリティとして限界があり、私たちがビデオカメラで撮影した映像データに価値を感じてもらえたようです。また、映像を撮る手間が省けると、コーチやスタッフはその分、本来の業務に専念できますよね。日本水泳連盟による映像データの提供には、そういった狙いもあります。
アプリの開発。そして利便性の追求へ
(編集部)なるほど。選手を取り巻く環境全体へのサポートでもあるのですね。
(林先生)映像データに対する需要の高さを実感し、2016~2017年の選手権とジャパンオープンでは、参加選手やコーチに向けた本格的な映像提供をスタートしました。
まずスマートフォン向けiOS/Androidアプリ「スイミングデータパスポート」をリリースし、会場内にデータ保存用のNASと映像提供ブースを設置。会場ごとにインターネット環境は違いますが、ネットワーク設計に工夫を重ねました。QRコードによる本人確認の実施や、高速通信技術による迅速なデータ転送、そして選手やコーチが自身で必要なデータをピックアップして受け取ることが可能になり、回を経るごとに提供速度が劇的に向上しました。
選手達には「レースを終えて更衣室を出るとすぐに自分が泳いだ記録映像が見られる」と大好評で嬉しかったですね。
2017年には大会参加選手の約半数、加えてコーチなど選手をサポートするスタッフの方々にも多く活用していただくまでになりました。
映像データと分析データの同時提供を可能に
目を付けたのは、LINE社が提供するAPIの自動応答システム
(編集部)2017年の時点では、まだ記録映像とレース分析データは別の扱いだったんですよね。
(林先生)そうです。レース分析データはレース後すぐに印刷し、映像提供ブースに掲示していました。しかしより利便性を追求するため、2018年にはWeb上での公開に切り替えることに。こちらも通信環境があれば、選手やコーチの手元ですぐにデータが見られて便利だ、という声が寄せられました。
ただ科学委員会では、依然として映像データと分析データの扱いがバラバラであることが課題でした。
(編集部)データの一元化を目指す、より活用しやすいデータを提供する、という点でさらなる改善が必要だった?
(林先生)はい。そこでさらなるシステムの開発を進め、まずは映像データの保存・提供方法をクラウド型に切り替えることにしました。折しも、現場で映像データの転送に使用していたデバイス「TransferJet(R)」の販売終了が決まった時期でもあり、システムの在り方を再検討する必要があったんです。
そして2019年4月の日本選手権から提供をスタートしたのが、『時空間非依存型フィードバック』と称する全く新しいフィードバックシステムです。
新システムでは、利用者は映像データを自らの端末でダウンロードしてもらえるようにしました。提供ツールには広く普及しているコミュニケーションアプリ「LINE」を活用。科学委員会のアカウントにLINE社の自動応答システム「LINE Messaging API」を連携させています。
選手は本人登録を済ませたら、トーク画面で「データある?」もしくは選手名を送信するだけ。レース終了の約30分後には、自分の泳いだレース映像を見られるURLが自動で返信される仕組みです。
利便性の大幅な向上を実現した後、クラウドサーバーをより安定したAWS(Amazon Web Services)上に移行し、2020年冬には当初の目標だったデータの一元化……映像データとレース分析データの同時提供を実現しました。
(編集部)選手達はレース後、場所や時間を問わず、映像データも分析データも同時にチェックできるようになったんですね。
DXが競泳界に新たな風を吹かせる?
新たなキーワード「データの再現性」
(編集部)今後、競泳界におけるDXをどのように進めていこうと考えていますか?
(林先生)システム自体の発展とレース分析プロジェクトの普及、2つを同時に進めていく予定です。
まずシステム面では、過去のデータまで遡って活用できるようにしていきたいです。データの一元化によって、選手の泳ぎの特徴を客観的に把握し、簡単に情報共有できるようになりました。これまでの指導ではコーチ個人の力量や知識に頼らざるを得ない部分が大きかったところに、エビデンスが加わったということです。これによって目標設定がしやすくなり、競技者全体のレベルアップに寄与できる環境が整ってきていると自負しています。
一方で、現在は大会ごとにデータを閲覧する仕様にとどまっており、過去のデータが紐付いていない点が課題です。
競泳に限らずですが、スピードを競う競技では「今日のタイムが良くても、明日も速いとは限らない」ということが言えます。また、ある選手のレースタイムが2回連続で同じだったとしても、競技中のパフォーマンスの中身は違うはずなんです。
これまでと今回で何が違うのか、また前回と今回に限ってみると何が変わったか。そういったことがすぐに比較できれば、トレーニング内容をさらにブラッシュアップできるはずです。システムをさらに進化させ、過去から現在までの分析データを串刺しで俯瞰できるようにして、各選手にとってベストパフォーマンスを引き出すための「データによる再現性」を高めていきます。
強い選手のためだけではない。競泳界全体のボルテージを上げていく
(編集部)もう一つ、レース分析プロジェクトの普及とはどういったことを?
(林先生)現在は主要大会のみで実施していますが、今後は地方の予選会や、大学生が出場する学生選手権(関西選手権、関東選手権など)でも同じようなデータ提供を実施していきたいです。
具体的には2022年度から各地域の水泳連盟、水泳協会の科学委員会との連携を強化して、このデータ分析の活用を全国に広げていく予定です。
47都道府県の指導者が集う場で周知することで、指導のレベルアップ、ひいては競泳界全体のレベルアップに貢献していきたい。競泳界全体にデータに基づいた指導が普及・一般化すれば、特定の優秀な指導者に依存しなくても、ある程度のレベルまでは選手を伸ばせるようになると思うのです。トップアスリートだけでなく、地方の選手やジュニアの選手の可能性を伸ばし、競泳界全体のレベルアップをしていくことがトップアスリートを生み出し続けることにもつながると期待しています。
(編集部)競泳界全体を盛り上げていく、レベルアップという目標があるんですね。
(林先生)はい。日本競泳はまだまだ強くなれるはずです。
個人的には、世界の舞台で上手くパフォーマンスを出し切れてないような印象があって、その理由の一つは国内競争があまりないという点ではないかと考えています。事実、2020東京オリンピックの時は、各国の選手らが予選からかなり高い水準のタイムを出したことで、日本人選手が決勝まで進めないということが起こりました。
トップ選手は予選からベストタイムの90%以上のパフォーマンスで泳いでいて、90%を割った選手は決勝に残れない傾向がありました。
その前提に立ってみると、世界の競泳強豪国は国内のレースから熾烈な争いが繰り広げられていて、予選から高いパフォーマンスを出した上で決勝でも速く泳ぐ、そのトレーニングがきちんとできているように見受けられます。
日本競泳が強くなるには、国内の予選レースであっても自己パフォーマンスを発揮できるようになることが必要かもしれません。そのためには、選手同士がもっと切磋琢磨できるように、日本の競泳界全体のレベルアップが必要だと考えています。
立ちはだかる世界の巨人
(編集部)強豪国というワードが出ましたが、競泳界でのDXは世界的に進んでいるのでしょうか。
(林先生)他国でもすでに進んでいます。特に水泳大国のオーストラリアはAmazonとパートナーシップ契約を結んでレースのデータ化を進めていますし、イギリスはintelと組んでトレーニング内容のパフォーマンス分析に取り組み、成果を上げています。
世界のライバルが巨大な資本を持つIT企業と組むことでデータ化を一気に進めようとしている今、日本も後れを取るわけにはいきません。世界の競泳勢力図を書き換え、日本を各国と並ぶ水泳王国にするためには、DXへの取り組みの重要性は今後ますます高まっていくといえるでしょう。
「レースの見える化」を続けていくことで、世界でメダルを狙える選手層を広げていきたい。そして日本の競泳界がさらに盛り上がる役に立てれば最高ですね。
まとめ
レースがデータ化され、すぐに選手本人にフィードバックされているとは驚きました。 同時に、集積されたデータはスポーツ指導をより客観的かつ汎用的なものへと変化させ、指導者のサポートにもつながっている点に、未来の競泳界発展への期待を持ちました。 一方、世界のライバル国ではすでに巨大資本と組んで容赦ない競泳DXを仕掛けている話題も見逃せません。ひと昔であればそれもドラマとして語られるようなエピソードですが、こうした勢力にアイデアと工夫で立ち向かっていく日本は、今がまさに転換期といえるのでしょう。日本競泳界がこの課題に対してどう答えを出すのか、競技の水面下で広げられるDX競争からも目が離せません。