化身という意味の「アバター」。自分の分身を通して得た情報を、あたかも自分が体験したのと同じように得ることができる技術は、特にゲームの世界で先行的に導入されています。しかし、ゲームで用いられるアバター技術はAR(拡張現実)とも呼ばれる視界の再現であって、視覚はもとより触覚や聴覚などの感覚までを再現しているわけではありません。つまり、「仮想空間に自分が実体感を伴って存在する」という段階には至っておらず、そのためには人間の感覚の根源に迫る心理学における認知科学の知見が必要です。
この分野については前回「人間のようなロボットは可能か?」で人間らしいコミュニケーションの再現に必要な4つの研究アプローチを紹介しました。今回はそのうちの「非言語コミュニケーションの探究と実現」に関わるテーマです。
仮想世界に自分の分身である「アバター」を解き放ち、あたかも自分が体験しているかのような「没入感」や「実体感」を得ることができれば、その場にいながらにして世界中の人たちとスムースなコミュニケーションが可能となり、新たな知見の共有や共同研究が進むことが期待されます。
今回は、大手電機メーカーの研究者として新技術の社会実装に関わり、現在は追手門学院大学でアバター技術の確立に向けて研究に取り組む丸野進心理学部教授に話を聞きました。
INDEX
アバター技術が目指すものとは
今、ここにいない人と握手ができる技術?
(編集部)先生が実現を目指しているアバター技術とは、どのようなものでしょうか。
(丸野先生)コンピュータ上に築いた仮想空間において、皆で寄り集まって研究や共同作業をしたり、あるいは遊んだり、本当の意味でコラボレーションができる世界を実現するのが研究の目的です。今もオンライン会議などを通じて、空間を超えたコミュニケーションは可能です。しかし会議のメンバー同士で「握手」はできません。握手というのは、このアバター技術にとって象徴的な行為です。
時空間を超えたコミュニケーションですから、コロナ禍という状況も研究のきっかけの一つです。移動制限がある中、アバター技術への期待は高まっています。
(編集部)仮想空間で握手をするというのは、どういうしくみでしょうか。
(丸野先生)仮想空間に自分自身(アバター)がいます。現実空間の自分は3Dゴーグルや専用グローブなどのアクチュエータを装着することで、アバターと身体を同期させます。それによって仮想空間上のアバターと感覚を共有します。その状況でアバター同士が握手をすると、握った感じが得られるわけです。
ゲームに活用されているVR(拡張現実)の世界では、箱庭のような普段と違う環境に入って自身のアバターを見ることはできます。しかし、それでは感覚を伴わないし、自分がそこにいるという「実体感」までは得られないわけです。
ゲームのアバターとは似て非なるもの
(編集部)アバターは歴史的にゲームでの導入が先行してきました。自分の代わりとなるキャラクターがゲーム世界に存在し、それを客観的にコントローラーで操作することを通してコミュニケーションを図ったり、動かしたりして楽しむものですが、そうしたゲーム上のアバターとは大きく印象が異なります。
(丸野先生)世の中的にはゲームの中で動くものがアバターという捉え方があるのかもしれませんが、我々が目指す技術とはかなり違うものです。ちなみに、アバターには学術的な正しい定義はありません。我々としては、仮想空間にいる自分のことをアバターと呼んでいます。
アバター技術の現在地
人間がここに「いる」とは、どういうことなのか
(編集部)仮想空間で人間同士のコラボレーションが可能になれば、人が真に身体や空間、時間から解放された社会を実現できそうですが、そこへ向けての課題は何でしょうか。
(丸野先生)一つは、仮想空間で人間が実体感を覚えることをどう実現するか。そのためには、実体感の根源や要素が何であるかを明らかにする必要があります。人間は現実の空間で、ここに「いる」ということを疑いません。実際には目から入った情報を通して脳がそう感じているだけですなのですが、そう思えることには理由があるはずです。また、ポンと身体に触れられたときにも、実体感が生まれます。こうした実体感の原理はあまり解明されていません。
もう一つが仮想空間とリアル空間の時差の問題です。オンライン会議でも、特に国際間のやり取りとなると時間的なズレが出てしまいます。同じように、アバター同士でコミュニケーションを図ろうとすると、自分の動きとアバターの動きとの間に時間のズレが発生します。同期化のためには、その解消が求められます。
ズレを解消する方法としては、自分の少し先の動きをAI(人工知能)で予測してアバターに伝達したり、アバターが止まったときに遅れを取り戻したりということが考えられます。人間の行動パターンの予測には、AIの学習機能を発揮させます。そうすることで、タイミングを合わせた握手を可能にしたいと思います。握手は共同作業だし、相互に同じ動きをするので成り立ちやすいはず。一方でジャンケンのような競い合いとなると、より難しくなるでしょう。
アバター研究はどこまで進展しているか
感覚のメカニズムを理論的に解明する認知科学
(編集部)アバターと同期させる必要がある人間の感覚は、五感のうちどれでしょうか。
(丸野先生)良く「五感」と言われますが、実際にはもっと沢山の感覚を人間は持っています。大きくは「体性感覚」と「特殊感覚」があります。「体性感覚」には①触覚や圧覚、温冷覚などの皮膚感覚、②深部感覚。③内臓感覚があり、「特殊感覚」には、①視覚、②聴覚、③味覚。④嗅覚、⑥平衡感覚 があり、五感と言われているのはそのごく一部です。理想的には、これらすべてをアバターと同期させるのが良いのですが、先ずは、視覚、触覚、聴覚の3つから取り組もうとしています。特に、視覚と触覚に関し、まずは仮想空間で自分が見えるようにするとともに、モノに触れられるようにしょうということです。
そこで必要になるのは人間の感じ方に関する認知科学的な解明です。先ほど実体感とは何かを明らかにする必要があると言いましたが、その実体感と関連深い視覚についても、まだわからないことが多い。例えば、2次元の画像が立体に見えるのは両眼視差による効果だとされています。しかし実験を行うと一番効いたのは画角の大きさでした。360度すべてを高精細映像で構成すると、視差がなくともそこにいる感じがするのです。単に映像が見えるということではなく、そこに没入、融合していくには何か求められるのか。そうしたことを一つひとつ科学的に明らかにしていかなければなりません。触覚についても、モノを触った時に伝わる刺激は感覚的で個人差もあるため、これを数値化によって可視化しないと再現が難しいわけです。又自身の存在の認識や「意識」という観点で「内臓感覚」が非常に重要である事も分かってきているので、将来的には「内臓感覚」とアバターとの同期も必要になってくると考えています。
こうした人間の認知に関する研究はアバター技術の進展を支えることにとどまらず、学術的にも意味が大きいと思います。
触覚の再現とその基本ベースとなる認知科学とのコラボ
(編集部)人間の感覚を学術的に明らかにするために、どんな研究に取り組まれていますか。
(丸野先生)具体的には、実体感を覚えたときの脳の反応を調べたり、副次的反応として表れた動作を測定したりしています。ベースとなる理論の構築には認知科学の知見が貢献します。心理学部に人工知能・認知科学専攻があるのはそういった点においても意義深く、この環境を活かして他の教員と共同研究を進めています。私の情報工学分野だけでは研究は成り立ちません。
仮想空間で肩をトントンとされ振り向く
(編集部)いずれは仮想空間の中で本当にモノに触れた感覚を得たり、その場にいるかのような臨場感を味わえたりする?
(丸野先生)握手という単純な動作だけではなく、アバターがモノをつかんだり、手で壁に触れたりすると、人間の方も同じように手に刺激が伝わる触覚を再現できるようにしていきたいと思います。丸いものや細いものといった形状の違いも感じられないといけません。現在、専用のグローブを製作し、アバターの動きに合わせて手に刺激が伝わり再現する実験に取り組んでいます。
視覚を再現するには、例えば下を向くと自分の体や足が見えるようにならなければいけませんし、横を向くと隣の人(アバター)が見えるという具合に、仮想世界の中にあっても自分がどこにいるのか相対的な位置関係を認識できるようにしなければなりません。
仮想空間上で背後から肩をトントンたたかれ、それに応えて振り向くといったことがアバター同士で可能になること。これが一つの到達点になると考えています。
アバター研究の未来
仮想空間で海外と共同研究
(編集部)このようなアバター技術が開発されると、例えばどんな活動が可能になりますか。
(丸野先生)仮想空間上に海外の実験室があるとします。その空間では、自分を見ると自分が見えて、視線を動かすと現地の研究者がいる。向こうでも同じ状況が起こっている。こうなると、移動することなくアバター同士でコミュニケーションをとりながら、海外の実験室と共同研究をすることも可能になります。研究のコラボレーションが増えれば、科学技術の進歩にも寄与できます。コロナ禍でオンライン会議が世界的に導入されましたが、時空間を超えて仮想空間で融合できるようになると、活動の幅がまったく違ってきます。
政府が毎年発表している科学技術基本計画の中で、サイバー空間とリアル空間の融合という言及があります。そこでは人間が時空間を超えていくことに触れているのですが、スマートフォンなどで距離の壁は超えてきました。次の壁は空間ということになります。
時空間を超えた「非言語コミュニーション」の意義
(編集部)改めて、オンライン会議にはない、アバター技術の優位性は何ですか。
(丸野先生)「非言語コミュニケーション」まで可能にしてしまう点です。研究は身体を使って行うものです。お互いに顔を見合わせて、その場の雰囲気を感じながら仕事するという相互のインタラクションによってクリエイティビティが触発される。それが研究活動です。アバターを通じて共有できる雰囲気や感覚があり、そこで人間同士が同期していく。これを非論理的と言う人もいますが、全然そうではなく、むしろ実体感の要素を裏付けています。
言語コミュニケーションであるオンライン会議でもある程度のことはできます。それでもコロナ禍で導入されたテレワークで、やはり顔を見合わせていないと仕事がしにくいと感じた人は多いはずです。このコロナ禍で身体性を伴った非言語コミュニケーションの重要性が改めて理解されたのではないでしょうか。
AIはあくまで人間の道具である
(編集部)アバターに翻弄される若者たちを描いた映画がありましたが、ここまで高度な技術が具現化すると、人間社会に良くない影響も考えられませんか。
(丸野先生)今後人間がAIに支配されるといった趣旨の発言を耳にすることがありますが、これには明らかに語弊があります。人間がそのようにプログラムしない限り、AIが勝手に動くことはありません。本当に怖いのは悪意を持った人間がそれを活用・悪用することで、これには充分注意をする必要があり、AIだけでなくどのような技術でも同じ事です。AIはあくまで道具であり、我々としてはその道具を使って、人間にとってより働きやすい空間づくりや、コミュニケーションしやすい環境をつくることを目指しています。
自宅で海外旅行を体感することも
(編集部)安心しました。先生が目指すアバター技術を利用すれば、海外との共同研究のほか、開発や営業などの企業活動、学校教育など様々な場面での応用が想定できます。個人レベルではどんな利用が考えられますか。
(丸野先生)仮想空間は目的に応じて自由につくれます。自宅にいながら仮想世界を自由に旅し、出あうアバターとコミュニケーションすることで世界中の人との交流も可能となるでしょう。
遠隔地にロボットを置いて自分のアバターと同期させると、好きな海外の都市でクルマを運転したり、そこで自転車を漕いでみたり、水族館で魚に触れてみるなど、実際の旅行を体感するということもできるようになるでしょう。
現実世界と仮想世界の境目がなくなるとも言えるのですが、アバター技術はこうした可能性を秘めています。まずは海外の研究者と、がっちり握手する瞬間を早く迎えたいと思います。
まとめ
ゲームや映画の世界ではかなり進んでいるイメ―ジがあったアバター技術の研究ですが、感覚まで同期化させるという本来の意味においては、まだたくさんの研究課題があると思いました。感覚まで同期化した先には、現実と仮想の区別がなくなり、どちらも現実のものとして受け止めていくことになるのでしょうか。アバター技術における感覚の再現には認知科学によるメカニズムの解明が欠かせず、心理学は「人間とは何か」を探究する学問だと改めて思いました。