人気アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』にも登場し、日本でも名前だけはよく知られている死海文書ですが、その実態を知る人は意外と少ないのではないでしょうか。死海文書は旧約聖書の写本や古代ユダヤ教に関連する古文書ですが、「死海」というおそろしげな名称や、公式校訂版の出版の遅れに起因する陰謀論などから、オカルト的なイメージが持たれています。そうしたイメージ先行の「死海文書」の本来の姿とは何か。何が書かれ、私たちにとってどのような意味があるのか?
今回は、2018年から出版がはじまった日本語全訳プロジェクトに翻訳者として関わっている、ギリシア・ローマ時代のユダヤ・キリスト教文学が専門の加藤哲平基盤教育機構常勤講師と共に死海文書の秘密に迫ります。
INDEX
イメージが先行する死海文書。その正体とは?
死海文書とは
(編集部)何やら怪しげなイメージを醸し出している死海文書ですが、そもそもどういったものなのでしょうか?
(加藤先生)「死」という文字が入っているので、確かに少々オカルティックで神秘的なイメージが先行しがちですね。でもヘブライ語だと「死海」は「塩の海」というので、別に怪しげではないんです。「死海文書(しかいもんじょ/しかいぶんしょ)」が一般的な名称ですが、「死海写本(しかいしゃほん)」と呼ばれることもあります。
死海文書は、現在のイスラエルとヨルダンの間にある死海周辺の洞窟から見つかった約2000年前の古文書です。主に羊皮紙やパピルスの巻物にヘブライ語、アラム語、そしてギリシア語で書かれています。中でも、クムラン地域の11の洞窟で見つかった約800点の古文書の断片が有名です。
このうち200点は旧約聖書の写本、600点は旧約聖書には含まれないユダヤ教の文書(外典や偽典)と、これまで誰にも知られていなかった未知のテクスト群でした。その中には世界の終末や財宝のありかを示す文書まで含まれていました。クムラン地域以外の死海周辺でもさまざまな古文書が発見されており、それらを含めて死海文書と総称します。
世間の耳目を集めた解読までのサイドストーリー
(編集部)死海周辺で見つかった古文書ということですが、どのような経緯で発見されたんですか?
(加藤先生)1946年から47年にかけて、死海の西岸に位置するクムランの洞窟で、ベドウィンの羊飼い3人が群れから離れた羊を探しているときに偶然洞窟を見つけ、その中から壺に入った巻物をいくつか発見しました。羊飼いたちは、ベツレヘム※で骨董屋を営むカンドーという人物のもとにそれを持ち込み、さらにカンドーはエルサレムにあるシリア正教会のサムエル大主教にその一部を売りました。
一方、エルサレム・ヘブライ大学の考古学教授であるスケーニクもまた別ルートから一部の写本を入手しました。彼はサムエル大主教が所有する写本も手に入れようとしましたが、叶いませんでした。しかし、その後大主教がアメリカで売りに出した写本をスケーニク教授の息子イガエル・ヤディンが買い取り、最初に発見された文書は全てイスラエルが所管する形となりました。さらに1956年までに死海周辺の多くの洞窟が調査され、全部で11の洞窟から大量の写本断片が見つかりました。
(編集部)解読はどのような形で進んでいったんですか?
(加藤先生)死海文書は、イエス時代のユダヤ教を知る上で重要な史料であることから、世紀の大発見として多くの研究者の注目を集めました。すぐさま各国の学者による研究チームが組織され、解読が始まりました。しかし、そもそも発見された写本が大量だったことに加え、チーム内の人間関係の悪化やメンバーのスキャンダルが次々と起こったために作業は遅々として進まず、発見から40年近く経っても写本のごくわずかな部分しか公表されませんでした。解読を心待ちにしていた人々の間では、「公表できない何かが書かれているに違いない」とか「カトリック教会をひっくり返してしまうような記述があるのでは?」といった、いわゆる陰謀論が語られるようになっていったんです。一部の研究者がそういう言説を扇動したことも影響しました。
(編集部)解読に時間を要したことで、さらに秘められたものという印象を世に植え付けたんですね。
(加藤先生)一般的に古代の文献は、発見から解読、そして公表までどうしても時間がかかってしまうものなのですが、死海文書の場合、研究チームにいろいろ問題がありすぎたんですね。そのくせ秘密主義で、発表前の写本を誰にも見せようとしませんでした。あまりの停滞ぶりにしびれを切らして、アメリカのある大学(実は私の母校ですが)が「海賊版」を出版して法廷闘争にまで発展し、ニューヨークタイムズなどの一般紙も取り上げる一大論争を巻き起こしたこともありました。このような騒動も相まって、結果的に世間の大きな注目を集めることになりました。
そこから何度もチームの責任者が代わりました。1990年代に入るとようやく責任者が安定し、チームも大幅に増員されたことで、次第に解読が進んでいきました。それまでのメンバーとは異なるバックグラウンドを持つ研究者たちがチームに入ることで、死海文書に対する新しい角度からのアプローチもできるようになりました。そして、2009年にようやく全40巻の公式校訂版が完成し、すべての写本が公開されたんです。
いつ、誰が、何のために?死海文書の謎
(編集部)長い時間をかけて解読が進められた死海文書は、いつ、誰が、何のために記したものだったのでしょうか?
(加藤先生)死海文書は色々な時代に書かれた様々な文書の集合体なので、いつ、というはっきりとした年代は定義できませんが、紀元前3世紀から紀元後1世紀までの時代に書かれたもので、今から2000年以上前の文書であることは間違いありません。誰が、というのは諸説ありますが、当時の中心都市エルサレムのユダヤ教と袂を分かち、自らを「ヤハド」と名乗り死海周辺を拠点としたユダヤ教の一派が書いたものと考えられます。彼らはいわゆるエッセネ派だったのではないかと一般的に言われています。
エッセネ派とは、神殿祭儀を中心とした当時のユダヤ教から離反し、砂漠の中で生活しながら宗教的清浄さを徹底した人々です。エッセネ派の存在はそれまでもローマの歴史家たちの証言から間接的に知られてはいましたが、死海文書が発見されたことにより、エッセネ派の人たち自身が書いた文書を読めるようになったのではないか、と期待が寄せられたわけです。
(編集部)死海文書はヘブライ語、アラム語、そしてギリシア語と、3つの言語で書かれていたということですが、同じ地域なのに言語が分かれている理由は何でしょうか?
(加藤先生)当時の地中海世界の言語状況を反映しているからです。ギリシア語は現代の英語のような位置づけ、いわゆる公用語でした。すでに旧約聖書はギリシア語に訳されていたので、ユダヤ人の中にはギリシア語訳の聖書を読む人たちも存在していました。しかし、当時のパレスチナ地方で日常語として使われていたのは、もともとアッシリアやバビロニアの言語だったアラム語でした。聖書はアラム語にも翻訳されています。民族言語であるヘブライ語はアラム語ほどではないにせよ、書き言葉や話し言葉としてある程度用いられていたようです。何といってもヘブライ語は聖書の言語として神聖視されていました。このほかマサダ地域ではラテン語で書かれた断片も出てきてはいるのですが、これはユダヤを征服したローマ軍の残したものでした。
死海文書が私たちに伝えてくれること
紆余曲折を経て、明らかになったその内容とは?
(編集部)死海文書には、どのようなことが書かれていたのですか?
(加藤先生)基本的には、古代ユダヤ教の文書です。旧約聖書の写本をはじめとして、外典や偽典、共同生活のルールを記した文書、法律文書、聖書釈義、聖書の語り直し、黙示文学、知恵文書、天文文書、儀礼文書、魔術文書など、その内容は多岐に渡っています。
中でも、他のユダヤ教の派閥と共有している文書ではなく、クムランの共同体が独自に生み出したと考えられる党派的なテクストに注目が集まっています。その代表例が、第1洞窟で発見された『共同体の規則』です。この中には、「光の子」と「闇の子」の戦いといった壮大な世界観から、「会議中に3回うとうとしたら10日間の罰則を科す」といった会社の上司の小言みたいなことまで、いろいろなことが書かれています。
こうしたことからも分かるように、死海文書が示してくれるのは、第一に、ギリシア・ローマ時代のユダヤ教の実像です。文献史料が満足に残っていないこの時代のユダヤ教がどのような姿であったのかを、その当時の視点で直接教えてくれる証拠として、死海文書は非常に重要です。
第二に、死海文書は初期キリスト教の成立を知るための間接的な史料でもあります。死海文書はキリスト教と直接の関係はなく、キリスト教について言及してもいません。実際、死海文書から新約聖書の断片が見つかったという一部の研究者の主張もまったく支持を得られていません。しかし、比較的似た思想・集団形態を持った同時代の別集団として、クムランの共同体と初期キリスト教を比較することは可能です。
自分なりの解釈を加えるという、人間の普遍的な二次創造への欲求
(編集部)死海文書からは、その当時の人々の思想や考え方なども読み取ることができますか?
(加藤先生)死海文書の中には、聖書の写本だけでなく、聖書引用を散りばめながら自由にエピソードを展開する「語り直し」という手法がとられている文書も多く見られます。権威ある文書である聖書をベースに独自の解釈を加えながら作ったオリジナルの物語です。現代に置き換えると、アニメや漫画を見て楽しむだけでなく、それを基にして自由に物語を展開する二次創作やスピンオフなどに通ずるものでしょう。死海文書を読み解くと、ある中心的な物語をただ受容するだけでなく、自分なりの方法でそれを語り直し、新たな解釈を生み出したいという人間の欲求は、実は2000年も前から存在していたことが分かります。
死海文書をめぐるスキャンダルは現在進行形。聖書博物館所蔵の死海文書が偽物と判明
(編集部)古典文献としての価値はもちろん、死海文書にまつわる様々なサイドストーリーも世間の注目を集める一因だということでしたが、ご紹介いただいた他にも逸話はありますか?
(加藤先生)死海文書をめぐるスキャンダルは現代でも続いています。今もなお死海文書の断片はブラックマーケットにおいて高値で取引されているようですが、その分贋作も多く出回っています。2020年に、ワシントンの聖書博物館が所蔵する死海文書の断片がどれも偽物であることが発覚しました。博物館は名だたる研究者たちのお墨付きを得た上でこれらの断片を購入していたので、これは大事件になりました。この偽物をまんまと聖書博物館に売りつけたのが、実は最初にお話ししたベツレヘムの骨董屋カンドーの息子でした。このエピソードは、甘い言葉や権威にただ踊らされるのではなく、自分の目で科学的に物事を見極めることの大切さを、教訓として教えてくれるのではないでしょうか。
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO57398960Q0A330C2000000/
実は身近で開かれた研究テーマ?死海文書研究の今
死海文書研究の今。新たな解釈の可能性は?
(編集部)60年以上かけて解読された死海文書ですが、今年(2021年)、新たな断片が見つかったというニュースが話題になりました。死海文書の研究は今後どうなっていくのでしょうか?
(加藤先生)死海文書研究には、現在の定説が将来的にいつひっくり返ってもおかしくないという面白さがあります。先にお話しした例のように、すでに知られている断片が偽物である可能性もゼロではありませんし、研究が進み新たな解釈がなされる可能性も大いにあります。単語が2、3語程度しかない断片から文章を再構成するため、研究が進むにつれてある断片のアイデンティティが大きく変わることはよくあるのです。
そしてもう一つは、新たな死海文書が発見されるという可能性があります。まさに今年3月、そうした新発見がニュースになりました。「裏死海文書」が登場する映画『エヴァンゲリオン』公開のタイミングと重なり、日本でもとても話題になりましたから、これをきっかけに死海文書に興味を持たれた方も多いのではないでしょうか。クムランとは別のナハル・へヴェルという地域にある、その名も「恐怖の洞窟」で新たに見つかった断片は、非常に特殊なギリシア語訳の旧約聖書の一節と判明しました。この断片は、実はすでに知られている写本の切れ端が新たに見つかったものだったのですが、いずれにせよ聖書本文の研究にとって貴重な証拠になると期待されています。
https://www.asahi.com/articles/ASP3K3J36P3KUHBI009.html
http://www.kirishin.com/2021/03/19/47880/
(編集部)新たなテクノロジーを活用した研究の取り組みもされているのでしょうか?
(加藤先生)こちらも少し前にニュースになっていましたが、AIに死海文書をチェックさせてみると、写本の書き手が途中で変わっており、死海文書は複数人のチームで編纂されていたことが判明しました。途中で筆記者が変わることがあるということは、前から古書体学の成果によって分かっていたのですが、AIがその説を裏付けた形ですね。このように多くの問題について、AIがより精度の高い答えへと導いてくれるかもしれません。死海文書研究は、一方では地道な文献学的方法でなされてきましたが、他方でこうした新技術の応用の場として、最先端の科学と早くから協力して進められてきました。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/05/2ai.php
多角的にアプローチをすることの大切さ
(編集部)地理的にも宗教的にもバックグラウンドの異なる日本人でも、死海文書の研究はできますか?
(加藤先生)ヘブライ語、アラム語、ギリシア語といった古典語は一見とっつきにくそうですが、最近では日本でも学習環境が充実しつつありますので、言語の壁さえ突破できれば日本人も大きな貢献をすることができます。死海文書のような古典文献の研究には、新たな角度からのアプローチ、今までとは違った視点が重要になります。その意味で、これまでアメリカとイスラエルが中心だった死海文書の研究において、全く異なる文化や宗教観を持つ日本人が研究に加わることの意義は大きいと言えるでしょう。政治的・宗教的なしがらみがあまりないということも、研究の自由度という観点から重要なことです。
また、死海文書は古典文献の中では比較的新しい研究分野ということもあり、女性研究者が多いことも特徴的です。ユダヤ教の古典文献の研究は、これまで大部分を男性が占めてきましたが、死海文書は今まで誰も手をつけたことがない文献だったため、女性も参入しやすく、リーディングスカラーと呼ばれる研究者の中に、女性もたくさん入っています。ですから、死海文書を専門とする女性研究者が日本からもたくさん出てきたら、素晴らしいですね。
実は身近な研究テーマ。死海文書に興味を持ったなら
(編集部)死海文書にとても興味が湧いてきました。日本語で読むことはできるのでしょうか?
(加藤先生)死海文書に関心をもったなら、ぷねうま舎から刊行が続いている死海文書翻訳委員会による日本語全訳シリーズを是非手に取っていただきたいですね。これは聖書写本以外で、ある程度意味が取れる断片すべてを訳出するという意欲的な試みです。全12巻のうち半分程度はすでに刊行済みですから、日本語で気軽に死海文書に触れることができます。ただし、前もって旧約聖書の内容や、当時の歴史的背景などをある程度知ってから読むと、より深く理解できるでしょう。
また大阪中之島の朝日カルチャーセンターでは現在、死海文書の講座が開講されており、私も講師の一人として教えています。東京では日本ヘブライ文化協会が長年死海文書の講読をしています。入門書もたくさん出版されているので、意外と身近にアプローチできる文献です。ただし、トンデモ本もけっこうあるので気を付けてください。インターネット社会の今、発見された死海文書のほとんどの断片はデジタル処理が施されて公開されており、下記サイトから誰でも閲覧することができます。今から2000年以上も前に書かれた死海文書の世界を味わい、その魅力に触れていただきたいですね。
https://www.deadseascrolls.org.il/home
月本昭男・山我哲雄・上村静・加藤哲平訳『死海文書Ⅲ:聖書釈義』(ぷねうま舎、2021年)|Amazon
まとめ
神秘的で少し怪しげなイメージが先行していただけに、死海文書が実は誰でもアクセスできる古文書ということを知り驚きました。旧約聖書をはじめとした価値の高い古代ユダヤ教の諸文献で、「陰謀論のような怪しいものではない」ということも理解できましたし、そのような陰謀論がささやかれてしまう原因ともなった、死海文書にまつわる多くのサイドストーリーも非常に興味深く、「死海文書の世界」に引き込まれました。
加藤先生が今翻訳に取り組んでいるテクストは、『新世紀エヴァンゲリオン』にも影響を与えたということで、翻訳完成の暁には改めて、死海文書が後の創作物に与えた影響などについても話を聞いてみたいと思います。