前編では、世界遺産が「単層的」なものから、人の暮らしを含んだ「重層的」なものへと拡大している現状を確認しました。 前編の記事はこちら
後編は、日本における世界文化遺産を例に、世界遺産に込められた多面的側面をさらに解き明かしていきます。
INDEX
日本の世界遺産。その多面的な見方とは
世界遺産は創られる!?
(編集部)前半では外国の事例を挙げ、世界文化遺産の重層的価値の拡張について学びました。日本における世界文化遺産についてはいかがですか?
(吉田先生)初期に登録された法隆寺と姫路城は、既に国内外においてその価値が認められ、人びとに広く知られているものでした。建造物そのものだけで価値がある、前半でいうところの単層的な世界文化遺産でした。
その後、世界遺産条約における文化遺産の捉え方の変化や、2003年の無形文化遺産の保護に関する条約と連動するように、「世界遺産への登録」というプロセスを通して世界文化遺産にふさわしい空間や場所が設定され、新たに価値づけをしていく、あるいは価値を再認識していくという事例が増えているように思います。
例えば、2005年に登録された世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産は、山口県萩市の萩反射炉や今も現役で稼働している三菱長崎造船所のカンチレバークレーンなど、8県に点在しています。これは「シリアル・ノミネーション」といって、世界遺産の登録に際し、同じテーマ・ストーリーを持つ資産群を一つのまとまりとして関連づけ、全体として世界遺産の要件を満たす「顕著な普遍的価値」を有するもの、と定義されています。「明治日本の産業革命遺産」は地域をまたいでいるため、「世界遺産登録のプロセスを通してバラバラだったものがひとつの世界遺産として創り上げられた」という事例のひとつといえます。
2004年に日本で初めて「文化的景観」という枠組みで世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」もそのような見方ができるのではないでしょうか。構成資産としては、国宝や重要文化財、史跡・名勝など、多くの文化財が含まれています。しかし、これらの構成資産を点在するままに別のものとして捉えるのではなく、「文化的景観」という枠組みを踏まえながら「人と自然環境の双方が融合しながらつくりあげてきたもの」と捉えかえすことで世界文化遺産としての評価を得ました。これによって紀伊山地や熊野を訪れる観光客の動きも変わったのではないでしょうか。点在するスポットをバラバラに楽しむのではなく、「熊野」という空間、その場に身を置くことの新しい価値が生まれているように思います。
世界文化遺産に込められたもの −「伝統の創造」における議論−
世界遺産に認められる「伝統の創造」
(編集部)世界遺産になるというプロセスを通じて価値あるものが生み出されていくことは、昔からあったことなのでしょうか。
(吉田先生)「もともと価値のあるもの」が世界遺産になるのではなく、「世界遺産になるというプロセスを通じて価値あるものが生み出されていく」ということは、いいかえれば、その地域にある有形・無形のものが世界遺産条約という外部のまなざしを通して捉え返され、価値あるものへと作り変えられていくということです。こういった現象は文化人類学の分野では盛んに研究されてきました。この議論は、イギリスの歴史学者エリック・ホブズボーム※1とテレンス・レンジャー※1との共著「創られた伝統※3」において、私たちが伝統だと思っているものの多くが、比較的近年に創られたものであると指摘したことに端を発しています。
私たちが「伝統」だと思っている文化のなかには、特に19世紀から第一次世界大戦にかけて、ヨーロッパの国々が近代化していくなかで、「国家」「民族」という意識を高め、共同体としてのアイデンティティを確立するために創られたものが少なくないと述べています。この指摘を受け、文化人類学では、どちらかといえば創られた伝統をニセモノとみなすのではなく、それがいかに創られてきたかそのプロセスを明らかにする研究が重ねられました。そして、近年ではこうした伝統の創造が、観光や街づくりといった場面で盛んにみられることを指摘するようになっています。
この議論は今日の世界遺産に登録されるプロセスと多くの点で重なります。世界遺産の登録は多くの場合「国」という枠組みに基づいているため、世界遺産に登録されるということは、国を代表する文化が世界に認められたという誇らしい気持ちを喚起させます。「紀伊山地の霊場と参詣道」においても、「文化的景観」という枠組みを通して新たに構築されたものが世界文化遺産となり「国を代表する文化遺産」のように位置づけられるようになっているという意味では、「伝統の創造」と似た要素が多く認められるのではないでしょうか。また、世界遺産になるということは、観光と深く結びついています。そのため、世界遺産のイメージや観光客の期待に合うように地域にある様々なものを作り変えるということが盛んに起きているという意味でも、「伝統の創造」と似た現象が起こっているといえます。
※1.エリック・ホブズボーム(Eric John Ernest Hobsbawm, 1917年6月9日 – 2012年10月1日):イギリスの歴史学者。ケンブリッジ大学より博士号取得後、ロンドン大学バークベック・カレッジで教鞭をとる。 ※2.テレンス・レンジャー(Terence Osborn Ranger、1929年11月29日 – 2015年1月3日):アフリカ史、特にジンバブエの歴史(英語版)の研究を行なった高名なイギリスの歴史家。 ※3.『創られた伝統』1992前川啓二ほか(訳)、原題:The Invention of Tradition,1983
国におけるアイデンティティ形成の役割を担ったもの
(編集部)世界遺産のみならず国の伝統を見直す過程においても政治的な意図があったわけですね。
(井上先生)ヨーロッパ都市のほとんどは1800年代末の国家形成期にネーションとしてのアイデンティティを求めて、都市を再構築し、建築の修復を行います。その際、簡単に言えば、過去の都市イメージを踏襲しています。ピエール・パオラ・ペンツオ※4は、これを「近代の中世」と呼んでいます。また、戦後復興期に古い建物をまねて建造された建物や、資料に基づいて再建された建物も数多くあります。つまり、私達が現在見ているヨーロッパの都市の「古さ」の中には国家形成期等に創造されたこうした要素が、数多く含まれているわけです。「創られた伝統」という見方もあると思いますし、ある意味で都市が変化していくのは当然のことであり、都市遺産にはこうした多様な変化が内包されているわけです。
これに加えて世界遺産に文化的景観(Cultural landscape)が導入されたことにより、その枠組の中で遺産を組み合わせ、歴史都市に加えて美しい農村や伝統産業、祈りや巡礼などに関する地域のストーリーが生み出され、新しい地域のアイデンティティを構築することが可能になりました。前半でも話題に挙げましたが、このようにして世界文化遺産は対象を拡大していくわけですが、私は、「誰が」こうした物語を構築しているのか、という点を理解する必要があると思っています。
※4.ピエール・パオラ・ペンツオ:元ボローニャ大学視覚芸術学部教授 近現代都市計画史が専門
価値を再認識することの意味。「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の事例より
(編集部)2000年に世界文化遺産に登録された「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のうち、復元された首里城の正殿などは火災で焼失しました。政府は2026年までに再建する方針を打ち出していますが、これはどのように考えますか?
(吉田先生)2019年の10月31日未明、首里城の正殿等が焼失してしまったことは記憶に新しいと思います。学生からは「首里城は世界遺産から外れてしまうのではないか?」という質問も寄せられました。ただ世界遺産の構成資産は、正殿の地下にあった「遺構」ですので、建物が消失しても世界遺産であることに変わりはありません。
私は首里城の建てられていた場所は沖縄の歴史が凝縮されている場所だと思っています。琉球王国時代、首里城は王の居城であり、王府の政治や祭祀が行われる場所でした。しかし、1879年に明治政府によって琉球王国が解体され、首里城は明治政府に明け渡されます。その後は、旧日本軍の駐屯地、各種の学校などの施設として用いられ、大正時代には首里城正殿を拝殿とする沖縄神社として位置づけられ国宝となったこともありました。しかし、太平洋戦争末期の沖縄戦では旧日本軍の総司令部が置かれ、激しい攻撃を受け焦土と化してしまいました。そして戦後は琉球大学のキャンパスとなり、その後1970年代、沖縄県の日本への施政権返還(いわゆる本土復帰)の頃に首里城を復元するという方針が決まりました。復元のなかで目指されたことは、「琉球王国時代の首里城を復元させること」でした。1992年正殿や城郭の復元工事が完了し国営沖縄記念公園(首里城)として公開されました。2000年に首里城跡が世界遺産になることによって、さらに首里城は沖縄を代表する観光地のひとつとして、世界中から多くの人が訪れる場所になりました。
1992年の首里城の復元は肯定的に評価している研究者も多く、私も同様に首里城の復元はとても意味のあったことだと考えています。かつて沖縄が日本に組み込まれていくなかで、沖縄の人々のなかには自分たちの文化を「遅れたもの」と考える人も少なからずいたといいます。しかし首里城の復元によって沖縄の文化が「評価されるべき独自の価値を持つものである」ということを、沖縄の人たち自身が再確認する契機になったのではないでしょうか。
復元とその課題
(編集部)首里城の復元には沖縄の人たちに文化への誇りを取り戻させる面もあったのですね。
(吉田先生)はい。その一方で、首里城が辿ってきた歴史が見えにくくなってしまったこともあるように思います。首里城のあった場所は、琉球王国の本拠地にはじまり、中国、日本、アメリカとの関りの中で、それぞれの時代を映し出すかのように様々な役割を担ってきました。琉球王国時代の首里城が復元されたことによって、その土地が持っている歴史の重層性が見えにくくなってしまったのではないかと私は考えています。18世紀の首里城を復元することによって、私たちの視点はその時代だけに固定化され、他の部分が見えなくなってしまうからです。重層的に重なる歴史を表面的には見えなくしてしまったことは、デメリットと言えるかもしれません。
(井上先生)沖縄を研究対象の一つにしている吉田先生にうかがいたいと思っていたのですが、琉球王国の遺跡は沖縄の人々にとって「文化的なシンボル」だという議論がありますが、実際に地域ではどのように受けとめられているのでしょうか?
(吉田先生)1992年に復元された首里城は「沖縄を肯定的に捉えなおそう」という歴史観のなかでつくられたものです。しかし、全ての人にとってのシンボルなのか?というと必ずしもそうではないと考えています。
首里城が出火した際のニュースで「(焼失してしまったのは)残念だけど、実は一度も行ったことがない」とインタビューに答えていた地元の方がおり、観光地として注目を集めるがゆえに、地元の人が行く場所ではないと思っている人もいるのではなかと思いました。また、沖縄県はその内部でも文化的多様性をもっているので、沖縄本島以外の八重山や宮古島出身の方の中には、自分たちのシンボルではないと考えている人もいるように思います。そして、やはり世代ごとにも違いがあることは間違いありません。しかし、少なくとも私が沖縄に足を運ぶ中で感じたのは、小さなころ時から復元された首里城を見て、育ってきた若い世代の人たちにはシンボルと映っているように思います。
地域の人たちの存在
(編集部)一口に地域の人たちといっても受け止め方は様々ですね。
(吉田先生)現状はどうしても行政主導の要素が強いのではないでしょうか。首里城の再建も、急ピッチで進んでいるように思うのですが、首里周辺に住む人びとだけでなく、沖縄県内の様々な立場の人々が共に考えるプロセスがもっとあってもいいように思います。本来、その地域に住み文化の継承の「担い手」となる人々が不在のままでは、観光客のための首里城が復元されてしまうことになってしまうのではないでしょうか。
(井上先生)世界遺産を通じて遺跡や建造物、歴史都市の復元が当たり前になり、専門家や行政が率先してつくられた伝統を創出し、これが研究あるいは観光として語られ消費される時代になりつつあると感じます。世界遺産のプロセスにかかわる多くの専門家が世界遺産の魅力にとりつかれ、行政がこれを用いて広報を行うために、そこでは知らず知らずのうちに文化遺産に関する多くの幻想が生み出されていきます。しかし、これによって結果として、地域が抱える問題は曖昧にされ、また、何らかのすり替えが行われているのではないかという課題を感じざるをえません。
世界遺産を観光から
自然や伝統、そして人々の暮らしを生かす観光の形
(編集部)ここまで特に世界文化遺産について実情や課題をみてきました。これらを踏まえた観光という視点ではいかがでしょうか?
(井上先生)建築は魅力的ですが、先ほど話したように、対象を見て終わる。例えば「法隆寺に行ったあとは、京都で買い物して宿泊しよう」ということになるように思います。私が教えている学生さんのたちは、復元された歴史的な街並をテーマパークと呼ぶことがあります。私は、こうした批判を、とてもよいセンスだと思っています。つまり、世界遺産の中の歴史的な街並は、買い物するのに楽しい場所なのです。こうした既存の観光の形に対して、より重層的な世界文化遺産の場合は、つくられた伝統という課題を抱えながらも、地域自体に触れるという面白さがあります。新しい歴史風建物もあれば、人が住む農家や畑もある。様々な様相が混在しています。したがって、そこに観光に来る人達も、建物だけを見に来るということにはならず、地域全体を空間として楽しみ、食事も宿泊も地域の中で完結することができるようになっています。このように多様な観光を生み出しているという点は、世界遺産が役立っている部分ですよね。世界遺産を有する地域は、その地域独自の新しい楽しみ方を提案し、地域もその受け皿をつくっていくことが必要だと思います。
(編集部)世界遺産を楽しむ側も変わらないといけませんね。
(井上先生)日本では特に、世界遺産に登録された当初はものすごく観光客が増えるのですが、時間が経つにつれ減っていきます。それは観光客が世界遺産の楽しみ方を知らないからではないでしょうか。世界遺産の登録過程において見いだされたこと、つくりだされたもの、風景や農業、人々の営み、地域の課題、それらのすべてに興味を持ち、それらを学んでいくことが世界遺産をより豊かに楽しむ秘訣だと思います。
まとめ
「世界遺産への登録」というプロセスを通して、それにふさわしい空間や場所が設定され、新たに価値づけをしていくことで「世界遺産が創られる」という見方は、それまで無条件で「世界遺産はすばらしいもの」と思っていた自分にとって驚きでした。本来、人類共通の遺産であるものが、物語の主体という視点に立った時、国家や自治体による政治的、経済的意図が垣間見られ、担い手である地域の暮らしに目を向ける必要があるとも思いました。想像以上に多面的な見方のできる世界遺産ですが、こうした背景に関心を持つことでより深く理解していきたいと思いました。