天皇葬礼における「公」と「私」。古代から現代までの歴史的変遷をたどる

久水 俊和

久水 俊和 (ひさみず としかず) 追手門学院大学 文学部 人文学科 准教授専門:日本史(中世史)

天皇葬礼における「公」と「私」。古代から現代までの歴史的変遷をたどる
出典:独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所>黒田記念館所蔵黒田清輝作品集「明治天皇殯宮の図」

2024年11月15日に101歳で亡くなられた三笠宮妃 百合子さま。百合子さまの葬儀に関する報道(※)で「斂葬(れんそう)の儀」などの言葉にふれ、耳慣れなさを感じた方も多いのではないでしょうか。実は「斂葬の儀」とは、天皇・皇族における儀式の名称で、一般でいう本葬にあたるものです。意味がわかると、意外と身近に感じられませんか。

戦後「開かれた皇室」として、私たち国民も皇室のことをある程度は知ることができようになってきましたが、こと葬礼に関しては知られていないことも多くあるようです。 今回は、朝廷儀礼に詳しく『中世天皇葬礼史』(戎光祥出版 2020)などの著書がある文学部の久水俊和准教授と共に、天皇葬礼の歴史的変遷をたどります。

【※参考ニュース】 NHK NEWS WEB「三笠宮妃の百合子さま 「斂葬の儀」終わる 東京・豊島岡墓地」(2024年11月26日)

時代と共に変わってきた天皇の葬礼

土葬と火葬、“天皇として”の死と葬礼

(編集部)天皇・皇族といえばさまざまな伝統を有し、伝統を大切にしているイメージがあります。天皇葬礼でも代々受け継がれてきたものがあるのでしょうか。

(久水先生)伝統を重んじるのは確かですが、実は古代からの長い歴史を振り返ると、天皇の葬礼は神道や仏教といった宗教、時代背景や社会情勢などによってさまざまに変化してきました。

たとえば土葬か火葬か、埋葬の方法も時代によって異なります。古代は土葬でしたが、仏教が浸透した奈良時代から火葬が採り入れられるようになり、江戸時代初期までは火葬が続きました。そして江戸時代初期に再び土葬されるようになり現代まで継続されます。 しかし2013(平成25)年11月の宮内庁の発表では、現在の上皇陛下は火葬となることが決定しました。実に400年ぶりの変化です。

変遷の大枠としては、古代では国家的な葬礼が行われ、殯(もがり)という儀礼などが特徴的でした。中世には薄葬思想から簡素化され、天皇家の私的な行事として菩提寺に委ねられる形がメインに。それが明治以降は国家的な儀式として復活し、現代においては神道をベースとする古代の捉え方に回帰しているように見受けられます。

(編集部)日頃あまり耳にしない話題ということもあり、そういった変遷があったとは興味深いですね。ではその変遷について、古代から順を追って詳しくご解説いただけますか。

【古代】天皇葬礼は国家的な弔い

【古代】天皇葬礼は国家的な弔い
出典:Adobe Stock | 大阪府堺市にある仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)は、全長約486mに及ぶ日本最大の前方後円墳。5世紀前半から半ばに築造されたと推定されている。

死ぬことが許された古代天皇と国家的葬儀

(編集部)古代(飛鳥時代、奈良時代、平安時代前・中期)の天皇葬礼とはどのようなものだったのでしょうか?

(久水先生)古代の天皇の死は「偉大なる大王(おおきみ)の死」として扱われ、国を挙げた一大行事として葬礼を行っていました。大きなお墓となる山陵(さんりょう)を築き、土葬を行っていた時代で、殯(もがり)とそれに伴う殯宮儀礼(ひんきゅうぎれい)などの葬礼が執り行われていました。

殯とは中国の文化に由来する招魂・鎮魂・死の確認の儀式で、死後に遺体を棺に納め、長期間仮安置する風習です。 邪馬台国の記述で有名な『魏志倭人伝』にも記載があり、後に諸王以下の殯が禁止されるまでは民衆レベルでも広く行われていた儀式なんですよ。現代の私たちにとって、遺体を長く放置すること、朽ち果てていく遺体の存在というのは強烈なインパクトを与えますが、殯はあくまで魂を対象とした儀礼であり、遺体の存在は二次的なものであると捉えてください。

そして殯宮儀礼とは、殯の棺を安置する場所=殯宮で行われる儀礼のこと。哭(な)くこと(発哭:みねたてまつり)、歌い舞うこと(歌舞)、語ること(誄:しのびごと)の3本柱で構成されていました。死を嘆き悲しむことから始まり、「生き返るかもしれない」と歌や踊りで魂を引き留めるようと試み、魂が出ていったことを確認した後は生前の功徳を称え追悼する、という流れですね。

この殯・殯宮儀礼は、長ければ年単位で行われることもありました。殯自体が数カ月以上行われるのが普通だったこともありますが、山稜の造営がすぐには叶わないことも長期化に影響していたと考えられます。

火葬への転換。衰退する殯儀礼と薄葬(はくそう)の始まり

(編集部)殯を含む特徴的な形式の葬礼はいつ頃まで続いたのでしょう?

(久水先生)国家的な祭祀としての葬礼。そのあり方が少し変わったのが、703年に持統天皇が上皇として崩御した時です。 持統天皇は自身の葬儀について「簡素に、倹約にしてほしい」と遺言を残しました。しかし、実際には簡素・倹約は実現されたとは言えず、慣例に倣って殯儀礼は行われたのですが、特筆すべきは火葬されたことです。 これが天皇葬礼の記録に残る初の火葬であり、なぜ火葬されたかの正確な理由は明らかになっていません。しかし火葬の利点が簡便であることを考えると、持統天皇の希望を汲んだとも考えられるし、火葬による葬儀期間短縮で政治的な空白期間を短くしたとも考えられます。 いずれにしろ当時としてはイレギュラーだったのですが、その後、火葬は全国の有力者層に普及することとなり、天皇家でも文武天皇(707年没)・元明天皇(721年没)・元正天皇(748年没)と火葬が続きました。

(編集部)土葬から火葬へと埋葬方法が変化したのですね。

(久水先生)さらに平安時代になると、殯儀礼のコスト負担減、また国内で仏教が広まった影響もあり薄葬化が進みます。 特に仏教の影響は大きかったようです。仏教の弔いは火葬が基本ですから、仏教式の火葬が広がり、火葬の場合はお骨を菩提寺に収めるため、山陵が不要であることも薄葬化を加速させました。 嵯峨天皇(842年没)、淳和天皇(840年没)からは薄葬の遺言が恒例化し、さらに村上天皇(967年没)は殯儀礼が確認できない最初の例となりました。 以降、天皇葬礼における殯儀礼は、1912年の明治天皇葬で復活するまで姿を消すのです。

【中世】「天皇葬」から「ただ人葬」へ。“死なない天皇”の出現

【中世】「天皇葬」から「ただ人葬」へ。“死なない天皇”の出現
出典:Adobe Stock | 京都市東山区に壮大な伽藍を構える御寺 泉涌寺(みてらせんにゅうじ)。鎌倉時代以降、皇室の菩提寺として篤い信仰を集めてきた。

中世では“天皇の死”は許されなかった!?

(編集部)続いて中世(平安時代後期から戦国時代)における天皇葬礼を教えてください。

(久水先生)中世の天皇葬礼は、一言で表すなら「寺院に丸投げされた家族葬」です。国の一大行事だった古代とは異なり、天皇家という「イエ(家族共同体)」により運営される私的な葬礼としての扱いでした。 もちろん、国の為政者が天皇の死に対して行うべき国家的な追悼儀礼は古代から引き継がれていましたが、それは一部にとどまり、国政が滞るような影響を与えるものではありません。 葬礼は故天皇の近臣や外戚など内々の者だけが参列する私的な儀礼として行われ、新天皇や摂政・関白、大臣といった高位の人々が参列することもありませんでした。 火葬が主流で山陵も不要。薄葬の時代です。

(編集部)古代から扱いも規模感も大きく様変わりしたように見えますが、なぜでしょうか?

(久水先生)まず中世初期(平安時代後期)は天皇が次々と代替わりした時代で、天皇が現役のまま亡くなることがあまりありませんでした。つまり譲位後に上皇となって亡くなることが多かった。上皇となると「ただ人」ですから、天皇のような大々的な葬礼は行われない期間が続いていました。 そんな中、後一条天皇(1036年没)が、久しぶりに天皇の位のまま若くして内裏で亡くなります。天皇として葬ることになり、しかも内裏が穢れたとの考え方から政務も滞る事態となりました。 その時に考え出されたのが、「後一条天皇はまだ生きていると見立てて、皇位継承の儀礼を行おう。そして上皇となった後に出かけた先で亡くなったことにしよう」という案でした。 こうして中世では“天皇が亡くなること”がほぼなかったんです。そして「死なない天皇」という奉り方が出てきた。結果として、葬礼は天皇家の私的行事であるという位置付けに落ち着きました。

(編集部)上皇が亡くなったことにすれば、「ただ人」として薄葬で送り出すことになる。その案が採用されたんですね。

(久水先生)そうです。この時、在位のまま崩御しても存命中に譲位したことにする「如在之儀(にょざいのぎ)」という儀礼が生まれました。 やはり天皇が現役のまま亡くなると、律令(当時の法律)に則って国家的儀礼を行わなければならず、朝廷の通常業務が著しく滞る。それが大きな負担だったでしょうし、また中世日本といえば武家社会で、朝廷の収入が減っていたことも負担の一因として挙げられるでしょう。 中世の天皇は、後継者に皇位を譲るまで対外的に死ぬことが許されなかった、いわゆる「不死の天皇」と表すことができます。

【近世以降】“死ぬ天皇”への回帰

【近世以降】“死ぬ天皇”への回帰
出典:外池昇編・解説『文久山陵図』(新人物往来社 2005.2)より孝明天皇陵

江戸初期、火葬から土葬へと転換

(編集部)ここまで古代の土葬と国家的祭祀から、中世では火葬かつ私的な弔いへと大きな変化がありました。続く江戸時代はどうでしょうか。

(久水先生)江戸初期、またもや大きな転換がありました。後一条天皇から続いてきた火葬の流れが、後陽成天皇(1617年没)の埋葬で終わりを迎えます。後光明天皇(1654年没)の埋葬からは再び土葬となったのです。 大きな転換点であるにもかかわらず、実は土葬への変更理由を示す明確な史料はありません。現時点では、後光明天皇が儒学に傾倒していたことから、儒教の冠婚葬祭の儀式書『朱子家礼(しゅしかれい)』が影響したという説が有力視されています。 ただ葬式は“火葬のフリをする”など、仏教式で行われていた点に謎が残ります。私の見解では、おそらく後光明天皇自身は儒教式を希望したけれども、皇室の伝統もあって葬礼の儀式すべてを儒教式にすることはできず、土葬の希望だけが叶ったのでは、と考えています。

(編集部)土葬というと、古代の形式へ回帰しようとする様子が見られるのでしょうか。

(久水先生)まだこの時点では、古代への回帰とは言い切れません。この頃になってようやく「天皇のまま死ぬこと」が許されたという見方もありますが、葬儀自体はそれまでの上皇葬と同じ形式で、殯の儀礼など国家的儀礼を実施しなかったこともわかっています。 ただ、後光明天皇の葬式をきっかけにできた土葬の流れは続き、約200年後の幕末に行われた孝明天皇(1866年没)の葬礼では山稜が造営され、それまで続いていた“火葬のフリ”も止めて正式に土葬が復活しました。そして、土葬の儀礼方式は現在にまで続いています。

また天皇葬礼にちなんだ話題として、火葬から土葬への変化にともない天皇家の菩提寺の勢力争いにも一応の決着が付きました。 天皇家の菩提寺は「御寺(みてら)」と呼ばれるのですが、さかのぼること南北朝時代(1330年代)、北朝内部で起こった正統争いを発端に、御寺は泉涌寺(せんにゅうじ)と般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)の2つが存在していました。火葬が続いていた間は分骨することで立場の均衡を保っていたのですが、後光明天皇が土葬となったことで分骨が不可能になり、以降、泉涌寺だけに埋葬されることになりました。

明治維新を経て、再び国家的儀礼としての天皇葬礼へ

(編集部)明治時代を迎えると武家社会は終焉を迎え、日本の政治は天皇中心の新政府により行われることになりました。天皇の力の及ぶ範囲が再び大きくなったことで、葬礼はどのように変化したのでしょうか。

(久水先生)目立った変化として、1912年に執り行われた明治天皇葬儀では、殯(もがり)、誄(しのびごと)が復活しました。大正時代になって、名実ともに天皇は再び“天皇として死ぬこと”が許されたといえるでしょう。

(編集部)天皇として亡くなるというのは、国家としての一大事として扱うと先ほどお話しがありました。明治天皇の葬儀も国の一大行事として行われたのでしょうか?

(久水先生)そうですね。写真や史料に残っていますが、それまでの薄葬からはほど遠い大きな規模の儀礼となりました。 大規模な葬礼を行った背景には、明治期に天皇中心の国づくりが始まってから予算を確保しやすくなったことが挙げられます。また明治天皇の葬儀以降、天皇葬礼では仏教色は排除され、国家神道に基づく神式の古代的葬儀へと転換している点もポイントでしょう。現代に近づくにつれ、大きく見ると古代の形式に回帰してきたような印象を受けます。

(編集部)昭和天皇の葬礼では、公私の儀式が分離されていたようですが。

(久水先生)昭和天皇の「斂葬(れんそう)の儀」、一般でいうところの本葬は、皇室行事である「葬場殿(そうじょうでん)の儀」と、国の儀式である「大喪(たいそう)の礼」の2つの儀礼が同日に同所(新宿御苑)で行われました。これは憲法における「政教分離の原則」を考慮したもの。史上初の取り組みでした。

先に行われたのは「葬場殿の儀」です。これは神道に則った形で行われ、身内向けの行事として新天皇を含む皇族のほとんどが出席。新天皇が御誄(おんるい)と呼ばれる弔辞を読み、古墳を彷彿とさせる山稜に土葬にて埋葬されました。

その後に行われたのが、公の行事である「大喪の礼」です。こちらは政府主催の国葬であり、国内のみならず海外の首脳ら要人も参列する行事です。葬場殿の儀で設置されていた鳥居など、宗教的なものを撤去した状態で実施されました。

これからの天皇葬礼のあり方について

これからの天皇葬礼のあり方について
出典:Adobe Stock | 東京都八王子市にある昭和天皇 武蔵野陵(むさしののみささぎ)。武蔵陵墓地(むさしりょうぼち)には大正天皇陵・貞明皇后陵・昭和天皇陵・香淳皇后陵の4陵が造営されている。

検討が重ねられる「火葬」「陵墓」「殯」と公私行事

(編集部)時代と共に変わってきた天皇葬礼ですが、2013(平成25)年11月には宮内庁より「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」の発表が行われ、上皇上皇后両陛下(当時の天皇皇后両陛下)の葬儀に関する決定が明らかになになりました。

(久水先生)宮内庁の発表のポイントは、大きく3つありました。 1つめは、武蔵野陵墓地(東京都八王子市)内で火葬とすること。土葬からの変化ですね。2つめは、火葬施設は臨時に設置し資材は再利用すること。3つめは、お墓となる陵(みささぎ)について。陵は武蔵野陵墓地の大正天皇陵の西側に設置することとし、形式は上円下方墳に。両陛下は合葬ではないものの2つの陵が寄り添う形で一体的に整備し、両陛下合わせて3500㎡とすること……というものです。 上皇陛下が希望されていた美智子さまとの合葬とはなりませんが、御陵用地に関する制約や、現代の日本の葬法のほとんどが火葬であることなどに鑑み、「国民の負担にならぬよう簡素に、質素に」との思いが反映されたようです。

(編集部)上皇陛下は薄葬への思いもお持ちなのでしょうか。

(久水先生)そうとも見られますね。古代より、君主には仁政(徳のある政治)が求められました。薄葬を選ぶこともまた、臣下や国民に負担をかけない仁政の一つであると考えられていたんです。 ですので、代々の基本の考え方としては薄葬があったと思いますし、“皇統の祖”といわれる嵯峨天皇も薄葬の方針を支持、実行した人です。 ところが武家時代が終焉を迎え、明治維新を経て国家における存在感を大きくした天皇や皇室関係者は、その権威を示す手段の一つとして、葬礼を大規模なものにしたとも考えられます。

上皇陛下のご発言は、もちろん今の時代や国民感情に寄り添ってのことだと思いますが、やはり伝統を継承する方々ですから、明治以前の薄葬の歴史にも思いを馳せられたのかもしれませんね。

時と共に変えていくことと家々の伝統

(編集部)上皇陛下は、2016(平成28)年に天皇であった当時、退位の希望を国民へ向けて提起したビデオメッセージの中で殯(もがり)行事の負担について述べられたこと(※)も印象的でした。

【※参照】 宮内庁『象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば』(2016年8月8日)

(久水先生)現代のように医療が発達していなかった時代には、亡くなったと思った人が実は生きていたといった例も実際にあり、すぐに埋葬や火葬せずに一定期間蘇りを待つ殯は、魂が離れたことを確認する点でも意味のある儀礼でした。しかし現代社会においてご遺体を長く安置する殯儀礼は、残された家族にとっては酷な慣習です。 上皇陛下は昭和天皇が亡くなった際に殯の儀礼を実施されたご本人であり、次は息子である今上天皇に殯の儀礼をさせることになる。その心の負担についても考えられたのではないかと拝察します。

(編集部)先生は、上皇陛下のご意向をもとに実行される葬礼の変化や、伝統的に実施される各種儀礼について、どのように捉えていますか。

(久水先生)葬場殿の儀と大喪の礼、公私それぞれの儀礼を行うことで、特に葬場殿の儀でご意向を反映することが可能になっている点はよいと思います。 その上で、近現代の葬場殿の儀は古代の律令時の葬儀がベースとしていますから、今後も伝統に則り祭祀としての神道色が強いものとなるのかなと予想します。

ただ、天皇は日本国の象徴であるとはいえ、皇室もまた市井の家々と同じ一つの家です。その点からすると、古代から現代まで家として連綿と受け継いできた葬礼があるわけで、それは「よその家々の伝統の一つ」ともいえます。 私個人としては、特に私的な行事となる葬場殿の儀などは、希望されるように執り行うのが本来の形ではないかと考えています。

まとめ

天皇の葬儀、一連の儀礼といえば国を挙げての一大儀式のようなイメージを抱いていましたが、実は国庫や国民に負担をかけないよう「薄葬」の考え方がこれまで長きにわたって考えの基本にあったとは驚きました。また神道ベースから仏教が伝来してからの変化、古代への回帰など、変化を迎える中で儀礼も変わってきている点が興味深かったです。 自らの最期を考えるとき、誰しも希望する弔い方があるかと思います。それは天皇・皇室の方々もきっと同じで、久水先生の「天皇家も一つの家である」という言葉に納得しました。

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プロフィール

久水 俊和

久水 俊和 (ひさみず としかず) 追手門学院大学 文学部 人文学科 准教授専門:日本史(中世史)

2010年3月 明治大学大学院 文学研究科日本史学専攻 博士課程修了後、宮内庁書陵部 図書課にて研究員を務め、明治大学文学部(助教)などを経て現職。
日本の中世の朝廷について研究しており、特に仏事や神事といった朝廷儀礼、皇位継承、朝廷財政、幕府との関係に関する研究業績がある。 研究キーワードは中世史、宮中祭祀、改元、大喪、皇位継承、大内裏。

主な著書に『中世天皇葬礼史』(2020年、単著)、『室町期の朝廷公事と公武関係』(2011年、単著)、『室町・戦国天皇列伝』(2020年、共編著)などがある。

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