どうあるべき? 能登半島地震を機に考える災害大国・ニッポンの災害ボランティア

林 大造

林 大造 (はやし たいぞう) 追手門学院大学 社会学部 社会学科 教授専門:社会運動論、アドボカシー、ボランティアの社会学

どうあるべき? 能登半島地震を機に考える災害大国・ニッポンの災害ボランティア
出典:Adobe Stock (能登半島地震 輪島朝市通りの被災現場の風景)

1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災をはじめ、超大型台風やゲリラ豪雨による水害・土砂災害など、日本は甚大な自然災害に見舞われることの多い「災害大国」といわれてきました。また、南海トラフ地震や首都直下地震といった巨大地震が発生する可能性も指摘されており、地域におけるレジリエントな防災・減災機能の強化が必要不可欠です。

しかしそんな中、能登半島地震に対する支援では、政府の対応の遅れが指摘されるばかりでなく、ボランティアへの自粛ムードが生じました。(※)現地を訪れた人々がSNSで問題視され、「行かないことが支援」といった言葉も生まれたようです。 過去の震災経験を社会共通の記憶として持つ日本において、この現状をどのように捉えるべきでしょうか。社会運動論の視点からボランティアを捉えた研究を行ってきた社会学部の林 大造教授とともに、改めてボランティアの意義・役割を考えます。

【※参考ニュース】
産経新聞デジタル「車両の被災地入り自粛を ボランティアも募集なし 林官房長官」(2024年1月5日)

日本の災害ボランティアの現在地、その課題

日本の災害ボランティアの現在地、その課題
出典:Adobe Stock

「ボランティア元年」から広く認知された災害ボランティア

(編集部)日本における災害ボランティアの現状をみる前に、簡単に歴史を振り返ってみたいと思います。災害ボランティアの存在が広く認識されたのはいつ頃でしょうか。

(林先生)災害ボランティアの存在が日本で広く認識されたのは、阪神・淡路大震災が起きた1995年です。当時はまだ“ボランティア”という概念自体も呼び名もそれほど浸透していませんでした。しかし震災発生後1カ月で延べ約62万人、発生後1年間で延べ約137万人もの人々が被災地支援に訪れ、今では1995年が「ボランティア元年」と呼ばれています。

(編集部)非常に多くの人が現地に駆けつけたんですね。

(林先生)当時は今のように携帯電話やインターネットが一般的ではなく、被災地の情報は現地に行かないと把握できない状態でした。加えて都市部で発生した震災ということもあって、道路や橋、港湾設備といったインフラを含め被災規模が大きく、「とにかく現地に行く」ことが重要視されていた印象です。 近年では、社会福祉協議会などを中心にボランティア活動をコーディネートする「災害ボランティアセンター」が設立されたり、災害ボランティア活動を専門的かつ継続的に支援する団体が多く生まれたりして、災害ボランティアが広く一般化した印象です。

(編集部)たしかに阪神・淡路大震災以降、災害のたびに多くの人がボランティア活動に取り組み、現地を支援する様子が報じられていますね。

能登半島地震後にみたボランティア自粛ムード。加速させた「秩序化へのドライブ」

(編集部)ところが、2024年元旦に発生した能登半島地震の後は、ボランティア不足の声が聞こえてきます。産経新聞の報道(※1)によると、能登半島地震後、被災地で活動したボランティアは、発生から3カ月弱の3月30日時点で延べ約1万人余りにとどまっています。SNSやネット上では一般人の被災地入りをよしとしない流れもあったように思いますが、この変化はどうして起きたと考えられますか?

(林先生)発生直後、石川県知事から能登半島への不要不急の移動を控えるよう呼びかけがあったり、ネット上で緊急車両以外の車両による渋滞を懸念する声が大きくなったりと、さまざまな要因が入り交じった結果だと思います。 加えて、直接的な原因とはいえないものの1つ気になっているのが、災害ボランティアの世界で問題視されてきた「秩序化へのドライブ」です。この言葉は大阪大学の渥美公秀氏が提起した概念(※2)で、「柔軟で臨機応変な対応を忌避する秩序志向」といった意味をもち、災害ボランティアの世界で広く知られた言葉です。 今回の能登半島地震でのボランティア自粛については、社会全体でこの傾向が強く出ているように感じました。

(編集部)「秩序化へのドライブ」の傾向が高まると、どういった懸念が生まれるのでしょうか。

(林先生)柔軟性や臨機応変さを避けるとは、すなわちルール化・仕組み化された状態を望むということと同義です。 今の災害ボランティアは、現地へ行けばボランティアとして登録する窓口があり、指示を受けた場所で活動することが常識のようになっていますよね。「組織的なマネジメントがなければ有益なボランティア活動はできない」という思い込みがあるように感じられる。特に今回の能登半島地震後の流れでは、「現地でボランティア募集が始まっていないのに行くのはよくない」といった言説にその傾向が表れていました。 しかし、そもそも災害ボランティアとは有志が思い思いに動くものです。何といっても緊急事態ですからね。ボランティアは、あくまで自らの意志と判断にもとづいた世界であり、特に災害ボランティアはリスク判断、安全への備えは当然必須になりますが、ボランティアの行動を妨げる縛りやルールなど存在しないことが本来の姿だし、現場の状況に応じた臨機応変な判断でこそ現地のニーズに即応できるものだと感じます。被災者を中心に考えれば一刻も早くニーズのある場所へ向かうことが求められます。秩序ばかり求められる状態は、いかがなものでしょうか。

【※1 参考ニュース】産経新聞 「静かすぎる能登」 ボランティアまだ1万人、復旧遅れで受け入れ進まず(2024年3月30日)
【※2 参考文献】渥美公秀『災害ボランティア 新しい社会へのグループ・ダイナミックス』(2014年、弘文堂)

「サービス化」が進む現代の均一化・効率化・数値化の壁

(編集部)世間では「行かないことも支援」といった言葉も生まれていました。

(林先生)それも「秩序化へのドライブ」の一端といえるでしょう。「被災地に迷惑をかける」という言葉は、実際には支援に行かなくていいと自分を正当化させるようなものではないかと、私は思います。秩序化をすべて否定するわけではありませんが、この傾向がボランティアを本来の活動から遠ざけてしまう側面があることは確かです。

(編集部)この傾向は以前からあったのでしょうか。また、なぜ強まっていると考えられますか?

(林先生)「秩序化へのドライブ」は東日本大震災の頃からすでに始まっていたと言われています(※3)。私自身は何事もサービス化される現代社会のありかたの反映だと思っています。 今の時代、教育も医療もサービス化され、参加する人は洗練された仕組みの中で提供を受けること、またはマネジメントされることが当たり前になっています。その風潮がボランティアの分野にも及んでいる。 サービス化は、提供するモノの質を均一化させたり効率を上げたりと良い面もありますが、一方で目に見える数字や成果をもとにPDCAサイクルが回っていく面がマイナス方向に働くこともあります。特に被災地など、表面化しない/届かないニーズがたくさんある場においてサービス化が進むことは、見えていないニーズを排除し、目に見えるニーズだけに注力し満足することに繋がりかねません。それは本当に理想的なあり方と言えるでしょうか? これが、私が「秩序化へのドライブ」を危惧する理由です。

(編集部)自粛論が広まる一方で、災害発生後すぐに現地入りして自由に活動している方々もいらっしゃいますね。

(林先生)経験豊富な全国各地の災害救援ボランティアチームは、しっかり準備をして現地に入り、活動にあたっていました。地域を毛細血管のように駆け巡り、マスコミの報道ではなかなかスポットが当たらない被災地域にも赴いて結果的に被災地を“面的に”サポートしています。

そもそも阪神淡路大震災の当時は、現在主流になっているようなボランティアの受け入れ組織があったわけでもなく、ボランティアといえば有志の集まりでしたが、特に混乱なく多くの人が活動していました(※4)。「秩序化へのドライブ」が加速する今こそ、ボランティア活動のあり方を問い直すときではないかと思います。

【※3 参考文献】渥美公秀 前掲書
【※4 参考文献】村井雅清『災害ボランティアの心構え』(2011年、ソフトバンク新書)

社会運動論の視点で捉えるボランティア

社会運動論の視点で捉えるボランティア
出典:Adobe Stock

ボランティアは「権利領域の拡大の担い手」である

(編集部)そもそもボランティアとはどういう存在なのか、改めて考えてみたいと思います。林先生はボランティアなど“人が社会に何らかの変化を求める活動”について研究していますが、社会運動論の視点から見てボランティアはどういう存在なのでしょうか。

(林先生)ボランティアの捉え方を「ボランティア観」として考えると、活動に関わる人の中でも千差万別です。その前提の上で、今回はボランティア活動に携わるなかで私が最も意識していて、かつリアリティーを感じるボランティア観が「ボランティアとは権利領域の拡大の担い手である」 という捉え方です。関西学院大学の岡本仁宏氏が著書で用いた表現(※5)で、ボランティアの最も重要な部分を表していると感じます。

(編集部)権利領域の拡大の担い手、とはどういう意味が込められているのでしょうか。

(林先生)ボランティアは、現地で支援活動にあたるだけではなく、活動を通じて被支援者の権利を社会に認めさせていく役割を担うという意味です。たとえば被災直後、混乱の最中だからといって被災者の尊厳がないがしろにされるようなことがあってはいけません。しかし被災地では前例のない事態や被災者自身が声を挙げにくいことが原因で、権利を害されているケースが往々にしてあります。そんな時、外から訪れた第三者こそが被災地の細部にある情報を読み取り、「これは被支援者の権利として確立されるべきだ」と被災者の声を代弁し、社会に共感を広げて権利領域を拡大していく。その担い手がボランティアであるという捉え方です。

(編集部)現場でしか気づけない困難や声なき声をすくい上げるということですね。そうなると、先ほどの「秩序化へのドライブ」が本来のボランティア活動の阻害になり得ることがより明確にイメージできます。

(林先生)この考え方は災害時限定ではなく、高齢者福祉や街の清掃など、日常生活のボランティア領域にも言えるということ。誰かと誰かの狭間に立ち、誰も担う人がいない隙間を担うのがボランティアという存在です。「秩序化へのドライブ」によってボランティア活動を定型化・マニュアル化してしまうと、ボランティア各自が体験するユニークなコミュニケーションは減ってしまうんです。

【※5 参考文献】岡本仁宏「市民社会、ボランティア、政府」『増補版 ボランティアと市民社会 公共性は市民が紡ぎ出す』(2001年、晃洋書房、立木茂雄編著)所収

「ドミナントな物語」と「もうひとつの物語」

(編集部)ボランティアそれぞれが出会うコミュニケーションや情報こそが、被支援者を面的にサポートする上で大切なんですね。

(林先生)この点をもう少し掘り下げるために、人文学や社会学の分野で使われる「ドミナント・ナラティブ」と「オルタナティブ・ナラティブ」という言葉にも触れておきたいと思います。 「ドミナント・ナラティブ(Dominant Narrative)」は、直訳すると「支配的な(優勢な)物語」。世間一般で常識のように語られている風評や言説のことです。 対して「オルタナティブ・ナラティブ(Alternative Narrative)」は「もう一つの物語」と訳し、ドミナント・ナラティブに集約されない、無数に存在する個々の出来事や価値観を意味します。

今回お話ししてきた中では、たとえば「組織的なマネジメントがなければ有益なボランティア活動はできない」という思い込みがドミナント・ナラティブにあたります。 阪神淡路大震災の時には、組織的マネジメントなどなくても有志のボランティアの人々は上手に動くことができました。今でも神戸でボランティアに関わった人たちと当時を振り返ることがありますが、参加していた人ほど「現地で混乱はなかった」と実感を込めて話し、そうでない人ほど「当時はまだ『ボランティア活動のイロハ』が浸透しておらず、混乱もあった」と語る。統制化された災害ボランティア活動に慣れた人々がもつ偏ったイメージに由来するのではと推察しますが、こういったことが当たり前のように語られることは危険なドミナント・ナラティブの一つです。

(編集部)根拠のないドミナント・ナラティブをベースにもつ活動だと、被支援者への視野を狭める可能性も出てきそうですね。自分の目で見て、しっかり感じることが大切だと感じました。

(林先生)自分の目で見て、しっかり感じる。それがまさにオルタナティブ・ナラティブを得る経験といえます。災害ボランティアの話題にならえば “ボランティア各自が体験するユニークなコミュニケーション”のことですね。いろいろなオルタナティブ・ナラティブが生まれてこそボランティアは発展する。そのためには「秩序化のドライブ」や「ドミナント・ナラティブ」から意識的に解放される必要があるでしょう。

東日本大震災のボランティアで実感した「声なき声」を聞く必要性

(編集部)林先生は以前、東日本大震災の災害ボランティア活動も経験されたそうですね。

(林先生)東日本大震災後、岩手県釜石市で現地の方々に足湯でひと息ついてもらう活動に従事しました。足湯に浸かっている間に現地の人たちから様々な「つぶやき」が出てきました。その言葉の中には、被災者の今後の生活に対する不安や希望がにじみ出ていた。正面切って質問しても返ってこないような、ささやかな会話からもオルタナティブ・ナラティブを得る経験があったんです。

また、足湯に来てもひと言も発することなく帰ったご老人の存在も印象的でした。周囲の話では、その方はご親族が津波にさらわれたまま見つからず、いつもは周囲との接触をもたずに過ごしていたとのことでした。そこで私は、ボランティアが出会う被災者の人々は「ボランティアと顔を合わせてもよいと思える精神状態の人」であり、顔が見えない被災者の方がたくさんいることを痛感しました。 この経験も私にとってオルタナティブ・ナラティブです。現場にただよう“声なき声”に思いを馳せることもボランティアの大事な役割であると再確認した出来事でした。

今こそ見直したい「神戸宣言」のスピリッツ

(編集部)秩序化へのドライブ、ボランティア活動のサービス化、オルタナティブ・ナラティブなど、ここまで災害ボランティアのあり方を考え直すキーワードがたくさん出ました。

(林先生)もう一つ、被災地支援について考える上で、被災地以外の人が大切にしたいことがあります。それが中長期的に「復興に向けて何をサポートするか」という視点です。 私は参加していないのですが、阪神・淡路大震災が起きた年の年末、NGO団体によって開催された『市民とNGOの「防災」国際フォーラム』において発出された「神戸宣言」の一節は、後に私もそれを知って、その意義をいまもなお感じ続けている言葉です。

――――被災地の私たちは、自ら「語り出す」「学ぶ」「つながる」「つくる」「決める」行動を重ね、新しい社会システムを創造していく力を養っていくことから、私たち自身の復興の道を踏みだしていくことを、強く呼びかける。―――― 出典:震災文庫『市民とNGOの「防災」国際フォーラム : 神戸宣言

(林先生)実際に現地へボランティアに行く人も、他のかたちで支援する人も、“今の困難”を支えるだけでなく、被災地の人々の復興に向けた行動、とりわけ被災地の人々が自ら声を上げ、学んで成長しつながりあって、自ら決定に参加するその力を支える、という視点が大切なのではないでしょうか。これは民主主義のプロセスそのものです。このプロセスを支えることと、オルタナティブ・ナラティブへの感度を上げること、サービス化に抗すること、権利領域の拡大は表裏一体なのです。

わかったフリから一歩を踏み出し、真の社会参画を

ボランティアは、難しく考えるから難しい!?
出典:Adobe Stock

ボランティアは、難しく考えるから難しい!?

(編集部)ここまでボランティアの役割や参加する上での内面的な部分にスポットをあててきました。今、災害ボランティアに興味をもっている人に向けてメッセージをお願いします。

(林先生)先ほどボランティアの存在意義について「権利領域拡大の担い手」などと堅苦しい言葉で表現しましたが、それは私が研究者だからです。 ボランティア活動って善意から発出するものであって、アレコレ損得を考えてやることではありません。現地へ行って人々の声を聞き、役に立つこと。ボランティアに必要な心がけはこれだけです。難しいことは専門家に任せて、個々人においては「やってみようと思ったら動くフットワークの軽さ」、そして社会では「ボランティアは難しくしない」という空気を大切にしていきたいですね。そうして皆でボランティアの裾野を広げていきましょう。 難しく考えず、かといってSNSの情報で現地のことをわかった気にならず、とにかくボランティアがしたいと思ったら一歩踏み出してみてほしいです。

自分で考えて動く一歩一歩が、ボランティア活動を通じた社会参画になります。

まとめ

日本ではボランティア元年と呼ばれる1995年以降、ボランティア活動に関する仕組みが洗練されてきた印象がありましたが、実際には「秩序化へのドライブ」に由来する、本来のボランティアの意義を揺るがす課題が生じていることを知って驚きました。同時に「ボランティアは権利領域の拡大の担い手である」という社会運動論の視点を知り、現地でのサポートだけでなく、声なき声を拾い発信する役割をもつのだと学びを得ました。 そこから考えると、すぐに現地に行くことが難しくとも、傍観者的にならず現地を支援していくためには聞こえてくる声に耳を傾けることが大切なのですね。ボランティアの裾野を広げる一助となるよう、自分にできることから始めてみたいと思います。

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田中 正人

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プロフィール

林 大造

林 大造 (はやし たいぞう) 追手門学院大学 社会学部 社会学科 教授専門:社会運動論、アドボカシー、ボランティアの社会学

ボランティアからアドボカシー(政策提言)まで、人が社会に何らかの変化を求めるバリエーションを社会運動論の視点から研究。最近は子どもの権利をテーマの主軸に据えた研究に取り組んでいる。

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