大阪はいつから「おもろく」なった? 笑都大阪の誕生物語

佐藤 貴之

佐藤 貴之 (さとう たかゆき) 追手門学院大学  文学部 人文学科/国際教養学部 国際日本学科/大学院 現代社会文化研究科 講師専門:日本文学、近代文学、笑い

大阪はいつから「おもろく」なった? 笑都大阪の誕生物語
出典:Pexels

「なんでやねん」「知らんけど」。関西、とりわけ大阪の地元人同士の会話で飛び交うこのフレーズ。日常会話でのツッコミどころや会話の締めくくりに、またあるときは話を盛り上げるアクセントとして、今や関西以外でも使われているようです。

この背景を考えてみると「大阪弁は笑いのニュアンスを持っている」「大阪弁で話す人はおもしろい話を披露する」といった共通認識と期待があるのではないでしょうか。大阪弁で話すお笑い芸人の活躍もあって「笑いといえば大阪」のイメージはもはや定番ですが、果たしてこうしたイメージはいつどのように生まれ、出来上がったのでしょう?

今回は、日本近現代文学が専門で、追手門学院大学上方文化笑学センター研究員でもある佐藤 貴之講師と、文学作品や過去のメディア分析から「おもろい大阪」のイメージのルーツに迫ります。

大阪は最初から「おもろい大阪」だったわけではない!?

大阪は最初から「おもろい大阪」だったわけではない!?

文学史上の記録では、この100年の話だったという事実

(編集部)現代では「大阪人はおもしろい」というイメージが全国共通といって良いほど浸透しているように感じます。この状況はかなり昔からあったのでしょうか?

(佐藤先生)文学史上の記録を紐解いてみると、「大阪人=冗談好き」という認識自体は近世から多少見られますが、それが顕著な例として現れてくるのはここ100年くらいのことです。例えば関東から関西に移住した小説家・谷崎潤一郎は1932年に発表した『私の見た大阪及び大阪人』という文章の中で、「大阪人はアレでなかなか滑稽を解する。その点は矢張り都会人で、男も女も洒落や諧謔の神経を持つてゐることは東京人に劣らない」「洒落の分るのは江戸つ児ばかりに限つたことはない」と記述しています。少し上から目線にも感じるこの書き方から分かるのは、むしろ大阪人が東京人並みのユーモア・センスを持っていること自体、谷崎にとってはやや意外だったのだろうという点です。この文章が書かれた1930年代は、「大阪人はおもしろい」というイメージが固まりはじめる、ちょうど過渡期にあたる頃と考えられます。

それ以前は、大阪人がとりわけおもしろい、他の地域よりもユーモアを好む、と捉える風潮はあまりなかったようです。細かく言えば、文学史上では江戸後期、十返舎一九や式亭三馬といった作者の文学の中に大阪人(大坂人)が登場し、冗談を言うキャラクターとして描かれていることはあります。 しかし全体として例が多いわけではなく、「大阪人だからおもしろい」といった意味合いも薄い。他の地域に関しても、「ここの人は冗談好きだ」といった程度の記述であれば、同様の例が見つかります。つまり、大阪が特別だったわけではないと言えるでしょう。

つくられた「おもろい大阪」は放送の電波に乗って

つくられた「おもろい大阪」は放送の電波に乗って
出典:Adobe Stock

ラジオで全国に広まった大阪の漫才と大阪人のイメージ

(編集部)では、大阪っておもしろいと人々が認識するにはどういった経緯があったのでしょうか。何が転機になったのですか?

(佐藤先生)大きな転換期は1930年代でした。この頃に何が起きたかというと、ラジオの普及です。人々の生活に欠かせなくなったラジオが「大阪人っておもしろい」というイメージの普及に一役買いました。 中でもひときわ大きな存在だったのが、主に昭和期に活躍した漫才コンビ、横山エンタツ・花菱アチャコと、漫才作家の秋田實(あきたみのる)です。現在、一般に知られる「しゃべくり漫才」のスタイルを確立したのが彼らだと言われていて、いろいろなラジオ番組が制作される中、エンタツ・アチャコをはじめとする漫才が放送されて人気を博し、同時に「大阪弁=漫才=おもしろい」というイメージが全国的に広まっていきました。

(編集部)人々の間で、おもしろい漫才と大阪弁の存在が繋がっていったんですね。

(佐藤先生)さらに戦後1950年代には、人々の日常を明るく照らす存在としてユーモアのあるラジオ番組が広く歓迎された傾向があります。中でもNHK大阪局で制作され、全国に放送されたラジオ漫才やラジオドラマは大変な人気でした。特にヒットしたのが、花菱アチャコ主演のラジオコメディ番組『アチャコ青春手帖』と、花菱アチャコと女優・浪花千栄子(なにわちえこ)が夫婦役を演じた人情ドラマ『お父さんはお人好し』。どちらも大阪を舞台とした作品で、戦後の放送史でも必ずふれられる超ヒット作品です。これらを手がけたのは、大阪・船場生まれの放送作家で吉本興業とも強い繋がりがあった、長沖一(ながおき まこと)でした。ちなみに2020年~2021年に放映されたNHK連続テレビ小説「おちょやん」は浪花さんが主人公のモデルになっていて、長沖やアチャコにあたる人物も登場しています。

また、1955年にABCラジオで始まった視聴者参加型のトーク番組『夫婦善哉』も多くの人が支持した番組です。台本担当は秋田實。司会は当時夫婦だったミヤコ蝶々と南都雄二が務め、一般の夫婦を招いて結婚生活のエピソードを聞き出し、おもしろトークに仕立てていく……という流れ。ラジオからテレビへと舞台を変えつつ20年も続いた長寿番組で、今の『新婚さんいらっしゃい!』の前身にあたる番組とされています。 司会2人による夫婦漫才風の進行は当時とても斬新で、蝶々・雄二の掛け合いに「大阪人って漫才っぽい話し方をするんだ!」と感じた聴取者もいたようですよ。

「標準的な大阪弁」をつくれ! ラジオ番組の流行が背景に

(編集部)娯楽の中心がラジオだった時代、ヒット作品が与える影響は大きかったでしょうね。

(佐藤先生)ここでポイントになるのが、当時の制作陣・出演者に求められたのが“分かりやすくて大阪らしい番組を作ること”だった点です。特に作家陣は頭を悩ませたようです。 そもそも、大阪弁とひと言で言っても、エリアによっていくつかの種類があります。たとえば大阪市の商業中心地・船場でかつて使われていた船場言葉と、大阪の南や東の地域で使われる河内言葉とではかなり違いがあります。 大阪らしいエンターテイメントを世に発信していく際、必要になったのが「標準的な大阪弁」。そんなものは存在しなかったわけですが、音声で聴取者を魅了しなくてはいけないラジオ番組において、人々が「これがザ・大阪弁なんだな」とイメージできるような、最大公約数的な大阪弁が求められたんです。 これによって作り上げられた大阪弁は、ステレオタイプな大阪弁といえるでしょう。

(編集部)ちょっと想像するのが難しいのですが、つくられた標準的な大阪弁とはどういったものでしょうか。

(佐藤先生)当時の番組台本から引用してみましょう。先ほどご紹介した『お父さんはお人好し』の台本が残っていて、そこには出演者によって大阪弁のセリフが修正された痕跡があります。

一つ例を挙げると、元のセリフが「こない、おそなるはずないねがな(意味:こんなに遅くなるはずがないんだけど)」という文章。それが「こない、おそなるはずないねんけどな」と語尾が修正されています。 これは「~ねがな」の方が当時実際によく使われていた大阪弁ではあるものの、「~ねんけどな」とクセを抑えた表現に変えたんだろうと思われます。 また同じ台本の中で「そやよってに(意味:だから)」という表現を「そやさかいに」と変えた形跡もあります。 なぜ変更したのかまで書き込まれているわけではないため、意図を正確にくみ取ることは難しいのですが、どちらも修正後の方が現在でも通じやすい表現ですよね。 もともと作家が書いた台本の時点で、当時としては随分マイルドな大阪弁なのですが、そこからさらに現場の出演者らによって、より時代に合わせた口語的表現に修正されていたのだと思います。 その点に「他の地域でも通じる、個性を保ちながらもややマイルドな大阪弁=標準化した大阪弁」を意識していたことがうかがえます。

(編集部)そういった大阪弁が、ドラマのヒットと共に普及して、全国の人がイメージする大阪弁の基になった、ということでしょうか。

(佐藤先生)そうです。当時の記録をみると、全国各地でアチャコの大阪弁のモノマネが流行したといった記述もあり、「大阪弁を話す人はおもろい=大阪っておもしろい」と認知が広まっていたことがうかがえます。 ここで逆説的に言えることは、日々ラジオを聴いて過ごす大阪の人々でさえ、標準的な大阪弁に染まっていった向きがあるということです。 ラジオ業界の記録では、当時の流行について「エセ関西弁が広まっている」「芸人を通したエセ大阪弁が普及している」といった発言が見られます。先ほどご紹介した放送作家の長沖も、「ラジオブームと大阪弁ブームが大阪人から大阪弁を奪いつつあり、自分もそれに荷担している」といった旨の記述を残している点は注目ですね。

テレビの登場で「おもろい大阪」定着へ

(編集部)ラジオで広まった大阪人と笑いのリンクは、現在までにどう繋がるのでしょうか。

(佐藤先生)1960年代後半に全国的にテレビが普及するとともに、メディアの中心はラジオからテレビへと変わります。ラジオによってつくられた「大阪弁はおもしろい」「大阪はおもしろい」というイメージの広がりは、テレビの登場によって加速しました。 それまでラジオで聴くだけだった大阪弁やしゃべくり漫才に、身振り手振りの動作やステージ衣装の視覚的情報が加わり、ステレオタイプな大阪のイメージはより強固なものとなって人々に定着していくことに。 テレビドラマ業界では漫才師や芸人だけでなく、花登筐(はなとこばこ)というスター脚本家が登場して大阪商人のど根性ドラマを世に放ちました。それが次々とヒットしたことも一つの要因と言えます。

また、これらのブームを可能にした背景には、大阪が西日本の中心であることも関係しているでしょう。主要な放送局があり、特に芸人のメディア露出が多い。東京との対比の中で“大阪らしさ”がより際立ち、全国に分かりやすく受け入れられたことはラジオの歴史と同じです。

大阪芸人の東京進出、繰り返される漫才ブームでイメージはより強固に

(編集部)テレビの普及とともに「おもしろい大阪」のイメージが全国のお茶の間に浸透したことが、今も続いていると言うことでしょうか。

(佐藤先生)詳しい研究はこれからですが、大筋はその通りだろうと考えています。お笑いブームや漫才ブームは時代とともに何度も繰り返し起こります。 1980年代に横山やすし・西川きよしコンビが牽引した漫才ブーム、大阪から東京へ進出しスターへの道を駆け上がったダウンタウンの存在など、お笑い業界では大きな転機が訪れ、時代を代表する芸人の顔ぶれは次々変わり、それに伴って笑いの質も変わっている部分はあります。 それでも「大阪人はおもしろい」というイメージが固定化されてきた背景には、先行イメージを芸人もテレビ制作側も利用していた側面が見て取れます。

加えて、内在的な要因も考えられます。テレビの影響はとても大きく、1960年代にファーストインパクトを受けた世代はもちろん、その子ども世代や孫世代にあたる人たちは「大阪人っておもしろい」というメディアイメージを浴びながら育ちますよね。それは大阪に生まれ育つ人たちも同じです。 「おもろい大阪人」を期待される環境でアイデンティティが形成されていき、その中で無意識に「おもろい自分」を目指していく向きもあるでしょう。時代を経つつも「おもろい大阪人」というイメージは、大阪の人たち自身によって繰り返し強化されてきた、そうした経緯もあると考えられます。

昨今の「方言のコスプレ化」が示すもの

昨今の「方言のコスプレ化」が示すもの
出典:Adobe Stock

ビジネス関西弁芸人も!? 大阪弁はもはやキャラ設定の一部に

(編集部)メディア側が「大阪弁=おもしろい」を利用してきた点について、少し掘り下げてみたいと思います。テレビを見ていると、大阪出身ではない芸人の方が「大阪弁キャラ」を確立していることもありますよね。イメージの利用とはそういうことでしょうか。

(佐藤先生)そうです。大阪や関西の出身ではなくとも、大阪弁を巧みに扱う芸人の方をしばしば見かけます。これはメディアで広まった「標準化された大阪弁」を利用しておもろいキャラクターになりきっている、といえるのではないでしょうか。 この現象は、芸人の方に限ったことではありません。たとえば日常会話の中で、相手にツッコミを入れるために「なんでやねん」と言ってみたことはありませんか?

(編集部)大阪弁の利用法として、かなりステレオタイプなシーンですね。

(佐藤先生)これは「大阪弁=おもしろい」という一般的なイメージを利用して、そのシーンにおけるおもしろいツッコミ役を演じているわけです。さらに大阪弁に限らず方言に目を向ければ、東北弁は純朴な感じ、京都弁ははんなりとした感じといったように、方言に付随する地域のイメージってありませんか? そうした方言っぽい言葉づかいをシーンに応じて使い分けることで、自らのキャラクターを演じ分ける人が増えていて、言語学の分野では「方言のコスプレ化」と言われています。

(編集部)本人がその地域とは縁がなくても、メディアを通して何となく知っている言葉づかいで雰囲気を出すということですね。

(佐藤先生)かつて方言と土地は結びついているものだったんですが、今は方言が土地から離れ、付け替え可能な演出アイテムになっているイメージですね。「方言によってキャラクターを演じ分けることがコミュニケーションの一部になっている」という研究者もいて興味深く見ています。 方言のコスプレ化という視点から考えると、大阪弁は「それを話すだけでおもしろい人を演出できる」という、キャラ設定の一部として認識されて広まっているのではないでしょうか。

大阪のおもしろさは、文化の蓄積があってこそ

大正~昭和初期の道頓堀中座前
(出典:道頓堀商店会オフィシャルサイト道頓堀写真館「大正~昭和初期の道頓堀中座前。」

商人と芸能の町、大阪が受容してきた歴史にふれる

(編集部)大阪の人の多くは「大阪の人っておもしろいんだよね?」とイメージを抱かれることを、楽しんでいる節が見受けられます。こり固まったイメージを押しつけられるのは誰しも不快な思いがしそうですが、これを受け入れている状況も大阪ならではなのでしょうか?

(佐藤先生)大阪弁が全国区となったのはメディアの影響が大きかった訳ですが、後に「おもろい大阪」が定着したのは大阪だからこそ可能だったとも言えるでしょう。理由は大きく3つあると考えています。

まず、大阪が商人の町として長く栄えてきたこと。 豊臣秀吉が基盤をつくって以降、江戸時代には堺や近江、京都といった地域から商人を呼び寄せて大いに繁盛し、全国経済の中心となった激しい競争の場でした。そのため大坂商人たちにとっては愛想の良さ、楽しげな会話が処世術となっていたことが考えられます。

二つ目に、芸能の町としての絶え間ない発展があります。 文楽や落語と言った伝統芸能はもちろん、戦前からの吉本興業・松竹芸能をはじめとする劇場興行や、芸人育成が盛んで、一般の人々にとってもお笑い文化がとても身近にありました。

最後に、お笑いを楽しむ風土と市民の存在。これが大きいですね。 商人の町×芸能の町の土壌があった上で、メディアが作り上げた「コテコテの大阪人イメージ」を自分たちのアイデンティティの一部として受け入れる大らかさがあった。 たとえばテレビ番組で、大阪人のノリの良さにスポットを当てるコーナーがあったりしますよね。突然斬りかかるフリをしたり「バーン!」と銃で撃つ真似をしたりすると……町ゆく大阪の人々は倒れるフリをして応える、というような。 テレビ向けに多少の演出はあるにせよ、大阪の人なら全くの嘘ではないと誰もが認めるところではないでしょうか。もちろんすべての大阪の人がそうではなく「一括りにするな」と思う人もいるでしょう。しかし、「おもしろい大阪人」を求められることにサービス精神で楽しく応えることができる、そんな気風を感じます。

(編集部)「おもろい大阪」が全国区となり定着したのは、大阪にとって必然だったのかもしれませんね。

(佐藤先生)当たり前ですが大阪人が生まれつきおもしろいわけではないし、「おもしろい大阪人」は、あくまでステレオタイプなイメージで作られたものです。 ただ、大阪の人々にはそういった周囲が抱くイメージを受容して楽しむ懐の深さがあり、私はそういった文化自体が大阪のすばらしいところだと思います。

方言のコスプレ化と呼ばれている現象では、そういった地域の文化的な背景を見ず、先行するイメージだけを消費しているところにもどかしさを感じますね。今後、もっとこの「大阪と笑いの関係」を深掘りしていき、大阪の文化の厚さ、素晴らしさの部分にもスポットを当てていければと考えています。

まとめ

「笑いといえば大阪」「大阪の人はおもしろい」といったイメージは、放送メディアによってつくられたものだったのですね。よく耳にする大阪弁すら「標準的な大阪弁」として広まったことには驚きましたし、同じ情報を全国一律に届けることができるメディアの影響力の強さを改めて感じます。その一方で、大阪人はどこへ行ってもその地域の言葉に染まらず、大阪弁を話し続ける人が多いとも聞きます。それはとりも直さず、すでに大阪弁が全国的に認知されているからかもしれません。

追大は学生も教職員も大半が大阪弁・関西弁を話す大阪の大学だけに、日常会話はもちろん公式の場でも大阪弁・関西弁が飛び交います。東京や名古屋や九州、中四国など関西以外の出身の方からすると、それらに接するだけで心の中では「おもしろい大学」と思っているのかもしれませんね。

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2021.04.13
広瀬 依子

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プロフィール

佐藤 貴之

佐藤 貴之 (さとう たかゆき) 追手門学院大学  文学部 人文学科/国際教養学部 国際日本学科/大学院 現代社会文化研究科 講師専門:日本文学、近代文学、笑い

日本近現代文学、主に1920~1950年代の小説・評論を対象に、笑いの表現について理論と実証の両面から研究を進める。研究において目指しているのは、社会における言葉の効果や機能の解明すること。文学史を紐解くと現れる過去の言葉たちの中から、現代社会の課題解決に繋がるエッセンスを見出し、かたちにしていくことが目標。

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