行き過ぎた勝利至上主義に「待った!」小学生柔道全国大会廃止の先にあるもの

有山 篤利

有山 篤利 (ありやま あつとし) 追手門学院大学 社会学部 社会学科 教授(博士:教育学)専門:武道学、体育科教育学、体育社会学

行き過ぎた勝利至上主義に「待った!」小学生柔道全国大会廃止の先にあるもの
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2022年3月18日、日本スポーツ界を大きなニュースが駆け巡りました。それは、小学生の柔道の全国大会(全国小学生学年別柔道大会)が廃止されるというもの。 大会を主催してきた全日本柔道連盟(以下、全柔連)の発表では、理由として「心身の発達途上にあり、事理弁別の能力が十分でない小学生が勝利至上主義に陥ることは、好ましくないものと考える」と挙げています。 この廃止判断に対しては、競技の枠組みを超えてさまざまな専門家から賛同の意が示されましたが、一方で大会に向けて取り組む子どもや指導者、保護者からは複雑な心境を吐露する声も挙がっているようです。

近年、日本のスポーツ界には「健全で楽しめるスポーツ」や「生涯スポーツ」の視点が必要だという指摘があり、スポーツ庁による学校の部活動改革も進みつつあります。 柔道界における小学生の全国大会の廃止は、これらの課題とどのようにリンクするのでしょうか。

今回は、「豊かなスポーツとしての柔道」をテーマに研究を行う追手門学院大学社会学部の有山篤利教授と、日本大学柔道部の監督であり全日本柔道連盟の強化委員長も務める日本大学文理学部の金野潤准教授に、「これからの柔道、そして日本のスポーツの在り方」を対談形式で伺いました。

小学生の全国大会の廃止。世間でのインパクトの大きさに感じること

金野潤准教授・有山篤利教授
写真左:金野潤准教授 写真右:有山篤利教授

若年層の柔道における「いきすぎた勝利至上主義」がもたらす弊害とは?

(編集部)先頃、全国小学生学年別柔道大会の廃止決定が大きな話題となりました。この件について、お二人の率直な意見を聞かせてください。

(有山先生)廃止には賛成です。私自身も競技の中で育ってきたので勝負することの魅力は理解しています。ただそれでも、昨今の勝負への過度なこだわりには思うところがありました。全柔連としても世間に訴えかけるには勇気を要したのではと拝察しますが、よくぞ決断してくださったと勇気づけられた感があります。

(金野先生)小学生の全国大会の開催の可否については、全柔連の執行部が中心となり、全国少年柔道協議会中央委員会、大会事業委員会が慎重に協議を重ねて出した結論です。 私は全柔連の強化委員長を務めていますが、その立場はいったん置いて個人的な意見を申し上げるなら、有山先生と同じく、以前から小学生の大会の在り方の形を変えていくことには賛成でした。

全柔連の今回の決断は、少年柔道に関わる方々、特に全国大会をめざす子どもや指導者・保護者の思いに反するような内容ですので、さまざまなご意見が出ることは予想していましたが、やはり様々な反響がありました。 理由として考えられるのが、突然の発表により「勝利至上主義に陥ることは好ましくない」とキャッチーなフレーズが一人歩きしてしまったこと。現場で頑張っておられる子どもや指導者の方々に対して細かな説明が足りないまま大会廃止の話題が広がってしまい、現状として「今回の大会中止によって、全柔連は今後何をめざしていくのか」をしっかりと示すことができなかったことは大きな反省点です。 特定の人や組織の是非でなく、時代に合わせた仕組みや考え方の刷新がまずメインテーマであると私は考えています。

(有山先生)私は「小学生の全国大会が廃止される」というニュースが、世間でこんなに話題になったこと自体に衝撃を受けました。 フランスでは柔道が国民的スポーツとして普及していますが、そのフランスでも14歳以下の全国大会は存在しません。また世界に目を向けると、日本の小学生にあたる年代で全国規模の大会を実施しているスポーツはほぼなく、実際には多くの子ども達は大会がなくても目標を立ててスポーツに取り組んでいます。 かたや、近年の日本の少年大会では「勝つことで何が得られるか」よりも「勝つこと自体がすばらしい」という状態を見かけることが気になっていました。

(金野先生)小学生の全国大会が、子ども達の柔道にポジティブなパワーを与えてきたことは確かです。勝利をめざす過程は多くの学びを得られる機会であり、競技スポーツの大切な要素であることも間違いない。ただし、それは「勝利を目標の頂点に据えること」と同義ではありません。 特に情緒が発展途上である小学生においては、勝利を一義的にしてしまうと、子ども自身や周囲も気付かないうちに、スポーツの豊かな部分を犠牲にしてしまうことが起き得る。勝つことに過剰な価値を見出し、それを追い求めるがゆえの過程に弊害が出てきている部分もあるのではと感じていました。

スポーツの在り方はもっと多様であっていいはずなんですよね。勝利とは違う目標を持つ選手や指導者、団体があっていいんです。今回の大会廃止が「これからの柔道を一度落ち着いて考えてみませんか」という問いかけとして伝わることを願います。

選手に関わる大人は、選手と同じ夢を見るべきではない!?

(編集部)金野先生は指導者としても活躍されていますが、持論として「子どもには失敗を経験させることも大事。指導者は植物を育てるガーデナーのような気持ちで待つことが大事」とおっしゃっていますよね。

(金野先生)この持論に至るまでは、多くの失敗を繰り返しました。指導者になったばかりの頃は、何がなんでも選手を勝たせたいとスパルタ的な考えを持っていたんです。私自身が「勝つことに最も意味がある!」と思っていたので今更偉そうなことは言えません。 指導者が陥りがちな罠だと思うのですが、「この子たちには私がいなくてはダメだ」と思い込み、一から十まで手取り足取り教えようとしていました。しかしチームは強くならず、そのうちに厳しくすることが目的のようになってしまい……。あるとき「こんな指導で選手の未来に何を与えられるのか」と反省し、選手が自ら育つ力を信じ、成長を待つようになりました。

スポーツは、人が成長する一つのツールに過ぎません。時には厳しい言葉をかけることもありますが、適切な距離感が大事だと思います。

(有山先生)大会廃止の報道に際して「子ども達の夢を奪ってしまうのでは」といった声も聞こえてきましたが、「実は夢を見ているのは周囲の大人だったということはないですか」と問いたいですね。子どもは大人の喜怒哀楽に敏感ですし、大人が本気で夢を見れば、子ども達はきっとウルトラマンにだって勝とうとするでしょう

(金野先生)大人と子どもの違いは、成功や失敗から学んだ経験を兼ね備えているかどうかだと思います。勝利の先にネガティブな効果が派生することもあるし、敗北が非常にポジティブな影響を与えることもある。大人はそのことを経験から知っているはずなんです。 熱心に指導すればするほど指導者と子どもの親和性は高まりますが、大人がその喜びに我を忘れ選手と一喜一憂しすぎると、「勝敗以外の部分でその子にとって何が大切か」という大事な視点を見失ってしまう危険があると思うのです。 子どもの成長を長い目で見守るためにも、人生経験の豊富な大人が客観的な観点を持ち寄って「未来に繋がる環境」を作ってあげたいですね。

(有山先生)大人の課題でいうと、経験豊富だからこそ過去の価値観に引きずられがちだという点も挙げられます。 戦後日本は、追いつけ追い越せの精神で伸びてきました。特に高度経済成長期からバブル期は、国レベルでは世界一の経済大国になろう、庶民レベルでは懸命に働いて人よりいいモノを手に入れようという時代でした。しかし今は良いモノなら当たり前のように安価に手に入ります。もう、人々の価値観は「(一番いい)モノから(充実した)ココロへ」と変わってきている。 さまざまな社会活動の中で結果よりも幸福感や充実感が重視されるようになり、最終的な結果よりもそこまでのココロの在り方が大事だという価値観が浸透してきました。こういったニーズの移り変わりは、柔道をはじめスポーツに対しても言えると思います。

優勝という結果より、勝利をめざすなかで子ども達が豊かに成長したり、充実した生活を送れたりできるのかといった点を大事にする時代に入っている。そんな中にあって、いきすぎた勝利至上主義は社会の価値観と齟齬を起こしているのでしょう。 私を含め、指導者は「勝利をめざすことで子ども達にどんな豊かさを与えられるのか」について、改めてよく考えるべきではないでしょうか。

スポーツは文化的活動。日本と欧米の違いに覚える違和感

スポーツは文化的活動
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日本と欧米ではスポーツに対する認識が違う?

(編集部)結果よりもプロセスが大事という点は、先ほどの「他国の競技スポーツでは大会を重視しない」との話に通じるものがありそうですね。となると、そもそもなぜ日本では世界の風潮と逆のスポーツ感が根づいたのかという疑問が湧いてきます。

(有山先生)要因は複合的に絡んでいるはずなので、断言はできませんが……。 まず歴史的には、海外発のスポーツの多くが、学校対抗の競技として輸入されたことが関係すると考えられます。そして学校の部活動や体育を通じて人々に浸透していった。貴族の遊びから始まり、スポーツが余暇の楽しみとして存在するヨーロッパと異なり、オンタイムの存在として広がったんですね。

もう一つ、武道の影響もあると考えます。武道には歯を食いしばって修業し、成長することが究極であるという修養主義の側面がありますが、この考えがスポーツに浸透している。 この点について私見を述べると、柔道に関わる方には怒られてしまうかもしれませんが、嘉納治五郎先生にも責任があると見ています。嘉納治五郎先生は武芸を武道というスポーツに発展させた偉大な方ですが、逆から見ると、スポーツを武道の精神=まじめに取り組む対象として翻訳してしまった側面がある。

さらに、そういった向きを加速させたのが、高度経済成長期まっただ中に開催された1964年の東京オリンピック。世界に日本のすごさを見せるのだという国民の熱気が、勝負へのこだわりを強くしたのではないでしょうか。

(金野先生)東京オリンピックで「出場選手は国を背負う」というモデルケースが築かれたというご指摘、確かにそうですね。選手にとって応援や注目が大きな励みになることは間違いありません。観客にとっても、応援する一体感がスポーツ観戦の醍醐味になっているでしょう。 ただ、選手たちの一番の目的は、自分の夢であるオリンピックに挑戦すること。期待に応えたいという思いは、その中で第二義的に生まれてくるものだと理解が広まるといいなと思います。

「楽しむこと」と「競うこと」は相反することではない

(編集部)日本における価値観の変遷が話題に上りましたが、現在の価値観をスポーツに照らし合わせると「競うこと=勝利をめざすこと」から「楽しむこと」にニーズが変わってきているということでしょうか?

(有山先生)いえ、そもそも「楽しむこと」と「競うこと」を別枠でとらえるのは違う、と考えます。 これらは決して対立するものではなく、むしろ近い領域です。スポーツを心底楽しむためには真剣に競うという姿勢が必要なんです。日本ではなぜか「楽しんだら、それは真剣なスポーツと言えないのではないか」と捉えられがちですよね。両者は相容れないものだととらえている風潮に課題があります。でも、楽しむために真剣に競うんですよ。

(金野先生)自戒の念を込めて言いますが、私も以前は教え子に向かって「遊びじゃないんだぞ」と檄を飛ばすことがありました。ですが考えてみると、スポーツを含めた人間の文化活動とは、すべて遊びがベースにあるんですよね。 スポーツの楽しさは、自由意志で夢中になれる点にある。ときには苦しい思いもしますが、競うことも含めて「自由意志でやる」ことが大事なのではないでしょうか。

(有山先生)まさにおっしゃるとおりです。なのに、多くの大人が無意識下で「スポーツは精神的にハードなものであるべき」「スポーツはオンタイムの習い事」と思い込み、そういった環境で子どもを囲ってしまっている。 この大きな課題は、スポーツ庁から2018年に示された中学校や高校での「運動部活動の在り方に関する総合的なガイドライン」でも顕著に表れています。ガイドライン前文では、部活動について「全国の生徒が生涯にわたって豊かなスポーツライフを実現する資質・能力を育む基盤」と触れています。しかし後に続く本文では「週あたり2日以上の休養日をとること」「平日は長くとも2時間程度、休業日は3時間程度に」とある。前半では「スポーツで休養できる人になりましょう」、後半では「スポーツは疲れるから休日にしてはいけません」。これは矛盾していませんか。 スポーツを活用して余暇を楽しく過ごせる人を育成する、という前提の部活動に対して、先生の働き方の問題だけが大きくフォーカスされ、そもそも日本におけるスポーツの捉え方に関する議論が置いていかれているように感じます。

以前、私の授業を受けた学生の言葉にハッとさせられました。「欧米ではスポーツをすることがオフタイムなのに、日本ではスポーツをしないことがオフタイムになっていますね」と。子どもたちは部活が休みだと喜ぶ。確かにその通りで、この現象に日本のスポーツに対する意識の狭さが現れていると思います。日本にはオフタイムのスポーツが市民権を得ていない。まずこの現状を変えていきたいですね。

勝利へのこだわりは必要。しかし大切なのは結果ではなく……

(編集部)楽しむことと競うことは両立するという指摘は、深く納得するものがあります。

(金野先生)スポーツに限らず何事も「勝ち負け・結果にこだわらない」という心持ちでは成長しません。自ら高い目標を持って初めて思考が働き、行動が生まれます。かといって、目標が叶わなければ無意味なのか?というと、それも違う。 競技スポーツの世界では、参加者のほとんどが敗者になります。全身全霊をかけて挑んだ者にしかわからない喜びや苦しみがありますが、喜びはもちろん、苦しみだって時間をかけて進化をもたらす要素となる。勝ちにこだわりながらも「それだけが価値ではない」と知っていることこそが、大切です。

(有山先生)スポーツはあくまで人生を豊かにする文化的ツールですよね。つらい・苦しいばかりで、する人の心が貧しくなってしまっては、何の意味もありません。選手にも指導者にも、「一番を目指すのはあくまでも手段」という理解がないと、たとえ頂点に立ててもスポーツが持つ豊かさを享受できないでしょう。

(金野先生)私は多くのオリンピック選手を見てきましたが、彼ら・彼女らのほとんどが、金メダルを獲得することには心血を注ぎますが、獲得後はそのこと自体にはこだわっているようには感じませんでした。

先日、2020年の東京オリンピックで金メダルを獲得した新井千鶴選手に、ジュニア選手に向けた講演をお願いしたのですが、そこで「金メダルは私にとってのゴールではない。今、私の次の人生がスタートしています」とお話しになっていました。 この言葉にスポーツに対するすばらしい姿勢が現れていると思います。徹底的に勝ちにこだわり、頂点をめざしながらも、それは自身にとっての通過点に過ぎないと理解しているということです。

日本における柔道・スポーツのグランドデザインの考え方とは?

日本における柔道・スポーツのグランドデザインの考え方

スポーツの楽しみ方を増やすために、する人も観る人も皆で考えたい

(編集部)全国小学生学年別柔道大会の廃止やスポーツ庁における部活動改革を発端とし、改めてスポーツの在り方に注目が集まっています。日本におけるスポーツのグランドデザインを描く上で、どういった在り方が望ましいでしょうか。

(有山先生)これまでのスポーツは、結果を出した人だけが長く続け、そうでない人は勝てなくなった時点で振り落とされてやめてしまう傾向がありました。これではどんなスポーツも先細りの未来しか見えません。 オリンピックの金メダルをめざす、そういった競技としてのスポーツもすばらしいです。ですが「豊かなスポーツライフ」という言葉があるように、子どもから大人まで、スポーツに接するなかで人生を楽しく豊かにできる人が増えてほしい。 「私たちにとってスポーツって何だ?」それを真剣に考える時がきました。

(金野先生)連綿と続いてきた在り方へのこだわりを捨て、変革するタイミングが訪れているということですよね。今まで良かったから、悪かったからではなく、時代の変化に合わせ変わっていく必要がある。 私は最適解を持っているわけではありませんが、ヒントになると感じているのが、初めてフランスで試合に臨んだ時の体験です。現地の選手との対戦で私の投げ技が決まった瞬間、満員の観客がスタンディングオベーションしてくれたんです。自国の選手を負かせた他国の選手に全力の歓声を送る。日本だとこの空気は生まれないな、と感じました。そこで理解したのですが、フランスでは柔道がカルチャーとして確立されているからこそ、観客は選手の所属に関係なく純粋に試合を楽しんでいるんですね。 また、フランスでは勝敗にこだわらないグループの試合が各地で開催されていて、柔道に対する選択肢が幅広い。私はこういったスポーツの在り方をとても好ましく思います。

日本にはこれまでの歴史や土壌があるので、日本ならではの在り方があっていいんです。ただ、これからの柔道やスポーツの在り方を考えるときに、これまで持っていた価値観を異なる角度から見ていく必要性を感じています。 だからこそ、スポーツをする人も観る人も皆で考えていけたらいいですね。

(有山先生)結局、私を含む大人たちが「これまでスポーツについて真剣に考えてこなかった」のではないでしょうか。スポーツとは試合をすることであり、結果を残すことが目標なのだといった価値観にとらわれて、指導者は選手の強化に奔走し、各競技団体は大会の開催・運営だけに汗を流してきた。誰もスポーツの多様な価値には見向きもしなかった。

柔道界における小学生の全国大会の廃止は、「子どもの頃から、頂点を目指すオンタイムオンリーのスポーツでいいのか」、ひいては「スポーツという文化活動を人々の人生にどう役立てていくのか?」という問いをスポーツ界全体に投げかけた点に大きな意義があります。今、話題の部活動改革に底流している問題も同じです。ただの働き方改革ではないんです。この話題を機に、スポーツのとらえ方が変わることを願います。

まとめ

柔道界における小学生の全国大会の廃止や、行政主導による部活動改革。これらが日本のスポーツの変革に向けた第一歩につながる機会であることを理解できました。

有山先生、金野先生の指摘にあったとおり、これまでの日本のスポーツは「チャンピオンスポーツ」や「教育」としてとらえられてきた印象があります。ですが、競技大会の頂点をめざし厳しい練習に耐えるだけの日々が、果たして豊かなスポーツ体験であると言えるのか?特に子どもにとって、周囲の大人の影響は大きいものである。この視点を忘れず、改めて自分なりに、日本のスポーツの在り方について考えてみたいと思いました。

【取材協力】
金野 潤(こんの じゅん)
全日本柔道連盟 強化委員長、日本大学 柔道部監督、日本大学 文理学部 体育学科 准教授
1967年生まれ、東京都出身。日本大学入学後、全日本ジュニア柔道や日本学生柔道体重別選手権大会で優秀な成績を収め、以来同年代で後の五輪メダリスト・小川直也選手としのぎを削る。大学卒業後は綜合警備保障へ。1994年の全日本選手権で悲願の初優勝を果たし、1997年の同大会では30歳にして2度目の優勝を飾る。現役引退後は母校・日本大学の指導者に就任。2016年より全日本柔道連盟の強化委員長も務めている。
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有山 篤利

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プロフィール

有山 篤利

有山 篤利 (ありやま あつとし) 追手門学院大学 社会学部 社会学科 教授(博士:教育学)専門:武道学、体育科教育学、体育社会学

1983年~2004年 京都府立高校 保健体育教諭
1992年 山形国体で成年女子の部の監督を務め、京都府を優勝に導いた
2004年~2008年 京都府教育庁指導部保健体育課指導主事
2008年~2014年 聖泉大学 人間学部教授
2014年~2020年 兵庫教育大学大学院 学校教育研究科 教授
2020年~ 追手門学院大学 社会学部 教授

柔道を伝統的な運動文化として捉え、武道授業のあり方、生涯スポーツとしての「柔道」というテーマに取り組む。これまで柔道や部活動をテーマに講演・講師を多数務める。
近著に『フランス柔道とは何か 教育・学校・スポーツ』(2022年、共著)がある。

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