学生時代の入学式や修学旅行、家族で訪れた旅先での出来事……。なつかしい記憶は人それぞれにあり、普段それを特別に意識することはありません。 しかし、音楽や匂いなど、その記憶とともに封じ込められた「きっかけ」に触れたとき、脳裏に当時の様子が鮮やかによみがえり、時には時間をさかのぼって再体験したかのような感覚を覚えることすらあります。
私たちが「なつかしい」と呼び起こす記憶にはどのようなものがあるでしょうか。またどのような時にそうした懐かしさを思い出すでしょうか? 誰もが感じたことのある、この「なつかしさ」に関する記憶の研究。実はここ15年ほどのものだそうで、まだ分かっていないことも多いといいます。 今回はそんななつかしい記憶のメカニズムと心理的効果について、記憶心理学者の川口潤心理学部教授の案内でたどります。
INDEX
「なつかしさ」は人間だけが持つ特別なもの
心理学領域で研究が進む「なつかしさ」とは
(編集部)私たちは、思い出を振り返って「なつかしい」と感じることがあります。この「なつかしさ」について教えてください。
(川口先生)なつかしさには、「個人的なつかしさ」と「歴史的なつかしさ」の2種類があります。 個人的なつかしさとは、実体験の記憶に由来するもので、心理学領域で多く研究されています。歴史的なつかしさとは、社会的・文化的な知識から生じるなつかしさのこと。こちらはマーケティング戦略に関連する消費者行動の研究など、特に消費心理学や社会学領域で研究されています。いずれもなつかしさに関する研究は2000年代後半から盛んにされるようになりました。 今回は記憶心理学者の立場から、個人的なつかしさに関してお話しします。
なつかしさを呼び起こす「エピソード記憶」
(川口先生)なつかしさについて解説する前に、まず前提となる「エピソード記憶」の存在をお話ししておきましょう。心理学では、人間には「エピソード記憶」と呼ばれる特別な記憶があるとされています。これは実際の体験の記憶であり、単なる知識の記憶とは異なります。
たとえば、電車の車内でなじみのある人の顔を見かけたとします。その際に「あの人を知っているが、いつどこで出会ったんだっけ?」という場合は、知っているという感覚があっても具体的な体験を伴った感覚はありません。これが知識の記憶です。一方で、「あの人との出会いや初めての会話はこんなだったな」と思い出すケースが実体験の記憶、つまりエピソード記憶です。 「今日のお昼ごはんは何を食べたか」もエピソード記憶ですし、「去年行った美術展は刺激的だったな」という思い出もそうです。
(編集部)体験に関する主観的な記憶ということですね。
(川口先生)そうです。時間や場所、当時の出来事が一連の情報としてあり、それらを想起することで再体験するような記憶。「出来事に対する自伝的記憶」と称されることもありますね。 エピソード記憶は、人間のアイデンティティの基礎になるものだと考えられています。そして、エピソード記憶にまつわる感情の代表が「なつかしさ」です。
なつかしさはビタースイート。人間ならではの複雑な感情
(編集部)改めて考えると、なつかしいという感情は端的に説明するのが難しいですね。楽しい、悲しい、切ない……さまざまな要素を含んでいる気がします。
(川口先生)なつかしさは、ポジティブとネガティブが入り混じった複雑な感情で、心理学ではよく「ビタースイート」(bittersweet)と表現されます。人間ならではの感情特性なんですよ。 例を挙げて説明すると、家族旅行の思い出(エピソード記憶)を想起したとします。車の中での会話や旅先での出来事、海を訪れた際の潮の匂いなど、楽しかったシーンが次々と出てくる。「楽しかった」という感情が湧くでしょう。同時に、もう過ぎ去ってしまった経験だという寂しさもあるのではないでしょうか。 これが、ポジティブとネガティブが織りなすビタースイート。なつかしさです。
ただし、PTSD(心理的外傷ストレス障害)を抱える人が、深刻な心の傷やストレスを受けた記憶についてなつかしいと思うことはないと考えられます。なつかしさが生じるのは、あくまでもビタースイートな記憶に限られます。
誰もが一度は経験する「メンタルタイムトラベル」
記憶と時間的距離感の関係について
(編集部)日々生活している中で、ふとなつかしい記憶に思いを馳せることがあります。
(川口先生)意識的に思い出すのではなく、自然に記憶が呼び起こされるという感じですね。エピソード記憶は、さまざまな出来事(情報)に紐付いていて、視覚的・聴覚的・嗅覚的な情報などがきっかけとなって起こります。 ですから、日常の中で何らかの音や匂い、景色などがトリガーになることはよくあります。昔好きだった音楽を偶然耳にして、当時の友人とのエピソードがありありとよみがえる、というような経験は誰しも覚えがあるでしょう。
(編集部)では、遠い昔なのについ先日のように思える記憶もあれば、近年の出来事でもずっと以前のことのように感じるものもあります。これらの違いは何でしょうか。
(川口先生)記憶は一般的に時間経過とともに薄れていくものですが、その人の人生にとって重要な、または印象的な出来事は強く刻まれます。重要な出来事ほどエピソード記憶として鮮明に思い出すことができ、また鮮明に思い出せる記憶ほど時間的距離を近く感じる傾向にあることが分かっています。 「高校の卒業式の日のことを、まるでつい先日のことのように思い出せる」と感じる人がいるのもそのためです。
ちなみに諸研究では、人が過去の出来事を思い出す場合、青年期(11~20歳ごろ)の出来事がよく思い出されることが分かっていて――「レミニセンス・バンプ」と呼ばれる現象です――、この理由として、青春時代は新しいことを経験する機会が多く、また重要なライフイベントが多いからではないかと考えられています。
過去と未来への脳内タイムトラベル!?
(編集部)たしかに、印象的だった出来事は詳細に思い出せます。まるで映画のワンシーンを脳内で再生しているように情景が鮮やかだったりしますね。
(川口先生)エピソード記憶の最も重要な特徴として挙げられるのが、「メンタルタイムトラベル」(心の時間旅行)です。これはカナダの心理学者、エンデル・タルヴィング(Endel Tulving)氏が提唱した概念で、当初は「過去の出来事を心理的に再構築し、再体験するように思い出す状態」を指していました。先ほどから例に挙げているような、家族旅行の思い出や卒業式の記憶の想起ですね。
興味深いのが、近年の研究によって、エピソード記憶とは過去を想起する心のはたらきを支えるだけでなく、未来の想像やプランニングに深く関わることが明らかになってきている点です。 私たちの脳内では、過去の出来事を頭の中で再体験する時にも、未来のことを想像する時にも、同じようなメカニズムが使われているのです。
そこで近年では、「メンタルタイムトラベル」は過去だけでなく、未来を詳細に想像するというケースでも用いられる言葉になりました。 補足しておくと、未来時間のメンタルタイムトラベルは「エピソード的未来思考」と呼び分けられるケースもあります。
思い出し上手はプランニング上手
(編集部)過去を思い出すのにも未来を想像するのにも、脳が同じようなはたらきをしているとは意外です。
(川口先生)メカニズムが同じである以上、過去と未来のメンタルタイムトラベルには密接な関係があります。 過去のエピソードを詳細に思い出せる人は、未来を詳細に思い描くことができる。つまり、プランニング力が高いことが分かっています。
仮に、定期テストが翌週に迫った学生がいるとします。過去の出来事を詳細に思い出せる学生は、未来に訪れるテスト本番や当日までの自分の姿を具体的にイメージできます。そのイメージと現在を比較することで、事前にやるべきことに気が付き、よりしっかり準備ができる、というわけですね。
これは、エピソード記憶の情報の豊富さが、将来起こりうることを想像する手がかりになるからであると考えられます。
なつかしい記憶を思い出すと幸福感が増す!?
高齢者の記憶はポジティブ? 世代間差がある「ネガティブな記憶」
(編集部)高齢者の方ほど、昔の出来事をなつかしむイメージがあります。それは年を重ねた分だけエピソード記憶が多いことに由来するのでしょうか?
(川口先生)エピソード記憶の数というより、ポジティブな記憶が増えることに由来すると考えられます。 海外のある研究では、加齢とともにポジティブな記憶が増えることが分かっています。若者を対象にした調査ではネガティブとポジティブ、それぞれの記憶が鮮明にある一方で、高齢者を対象にした調査ではポジティブな記憶の割合が高かったんです。
先に話したとおり、エピソード記憶はアイデンティティの基礎になるもので、人にとって「自分は何者であるか」という部分を支えています。アイデンティティがネガティブな方向に傾くと、心理的に厳しい状態になることは想像に難くないでしょう。
この観点に「なつかしさ」が持つ心理的影響を加味し、調査研究を解釈すると、加齢とともに心の調整機能が多く働いている可能性が考えられます。「仕事での失敗に当時は落ち込んだけれども、あの経験があっての今だな」と、苦い経験も比較的肯定的ななつかしさに変わる、というイメージです。「思い出は美化される」という言葉もありますよね。
(編集部)なるほど、アイデンティティをポジティブに保つため、自身の人生を肯定する方向に動いている可能性があるんですね。
なつかしい記憶の心理的効果
(編集部)これまでもなつかしい記憶の心理的効果が示唆されてきましたが、最近の研究にはどのようなものがあるのでしょうか?
(川口先生)以前は単純な質問形式の調査研究が多かったのですが、近年ではなつかしさを感じる状態をつくり出し心理的な影響を測る、またはなつかしさを感じる/感じない状態のグループに分けて心理的課題への差を測る、というような実験的手法が多く開発されてきています。
(編集部)それらの研究から、分かってきていることは?
(川口先生)研究途上ではありますが、高齢者を対象とした我々の研究※では、なつかしい記憶の想起によって、主観的幸福感(well-being)の向上や、他の心理特性にも影響が見られる可能性を得ています。 他にも、“孤独感が低下する”“社会的なつながりを実感できる”など一般的に心理的に良い効果が出ることも報告されています。 また、過去の研究では「人がなつかしさを感じやすいのは、気分が少し落ち込んだ時(ネガティブ傾向の時)である」「孤独を感じている人は、社会的つながり感が高まると気分が落ち着く傾向にある」ということが示されています。
これらを総合的に考えると、なつかしい記憶へのメンタルタイムトラベルは、気分を少しポジティブに向かわせるような気分調整効果があるのではないでしょうか。
ただ、日常的に感じるなつかしさはネガティブな気分との相関が強いことも見出されており、自然に感じるなつかしさと意図的に思い出すなつかしさとはその効果が異なっているのではないか、という指摘もあります。また個人差もあるので、これらの効果については今後の研究を待つ必要があります。
(編集部)今後の研究も待たれますが、なつかしいという感情を抱くことが、心理的に良い効果を生む可能性があるというのは驚きです。
(川口先生)先ほど、なつかしさは人間だけが持つ特別な感情と考えているとお話ししました。なつかしさを伴うエピソード記憶には、必ずと言っていいほど人とのつながりが存在します。皆さんも、そういった記憶には家族や友人、知人など親しい人物が登場することが多いのではないでしょうか。なつかしさとは、個人を超えた社会的側面を持つんですね。
おそらく他の動物はなつかしさを感じなくても生きています。ということは、生存するだけならこの感情はなくても大丈夫なのでしょう。しかし、人間には社会的側面を持つ「なつかしさ」を感じるスキルが備わっている。 大変興味深いことで、個人的には進化論的な意味があるのではないかと見ています。
平子真里絵・川口潤 (2017)「なつかしい出来事の反復想起がもたらす心理的効果」日本認知心理学会第15回大会発表論文集
川口潤 (2011)「ノスタルジアとは何か-記憶の心理学的研究から」JunCture, 2, 54 – 65.
参考図書:川口潤(2014)「人はなぜなつかしさを感じるのか」楠見孝 (編), 日心叢書2:『なつかしさの心理学』. 誠信書房.
まとめ
若者には「なつい」と略されることもある「なつかしい」という感情。「なつかしさ」を持つことは人間らしさの一つの証でもあるのですね。 近年、AI技術の進化により性能が向上する一方のロボットには、作業の効率性の観点からか、「なつかしさ」を感じるような設計はされていないようです。心の中でさまざまな出来事を再体験する自由や楽しみが、私たち人間だけの特性なのだとしたら、こうした感覚や感情を大切にしていきたいものです。
また、なつかしい記憶を呼び起こすことは、幸福感が向上する効果も期待されるそうで、ここにも人間らしさを形成する一つのカギがありそうです。 スマホにSNSなど、私たちは大量の情報に目まぐるしく接し、常に取捨選択を迫られています。たまにはスマホを置いて「あの頃」の音楽を聴いたり、思い出の地に出かけたりして、メンタルタイムトラベルで心に栄養を与えてみてはいかがでしょうか。
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