インスタ女子と自粛警察。SNSで増幅する共通項。その名は「観念的快」

森 真一

森 真一 (もり しんいち) 追手門学院大学 社会学部 社会学科 教授 博士(社会学)専門:理論社会学

インスタ女子と自粛警察。SNSで増幅する共通項。その名は「観念的快」
(出典:PIXTA)

Twitter、Instagram、facebookを代表とするSNS(ソーシャルネットワークサービス)は、私たちの社会に急速に普及し、テレビや新聞と同じような情報流通において、個人が手軽に発信できるインフラへと成長する一方で、フェイクニュースによるデマの流布や、度が過ぎた誹謗中傷がいじめの温床になるなど、深刻な社会問題としてもしばしば取り上げられています。

個人が簡単により多くの人に情報発信し、つながることができるようになった今、他者の評価を求め奔走する「インスタ女子」や、コロナ禍において社会通念上の正義に従わない他者を告発する「自粛警察」といった新たな概念が生まれ、社会現象にさえなっています。今回はそうした時代が生んだ「SNSの申し子」たちを、理論社会学を専門とし、各種メディアでもコメント解説を行っている、社会学部教授 森真一先生が考察します。

SNS時代の申し子。インスタ女子と自粛警察

SNS時代の申し子。インスタ女子と自粛警察
(出典:shutterstock)

インスタ女子と感性的な体験、観念的な体験とは

(編集部)インスタ女子と自粛警察。一見関係が無いようにも思います。まずインスタ女子について、森先生は研究対象としても取り上げていますが、先生の考えるインスタ女子の特徴とは何でしょうか?

(森先生)インスタ女子は、一般的にはSNSのInstagramに自撮り写真、おいしい料理やスイーツの写真、きれいなスポットの写真、今話題のスポットの写真などを掲載している女性のことを指します。「いいね」やフォロワーからの高評価を獲得するため、「インスタ映え」する写真撮影へのこだわりが強いと言われています。例えばレストランで食事をするという消費の場面で考えてみましょう。お店全体の雰囲気や店員のサービスを楽しみ、提供される料理を味わい、そのことによって得た「おいしかった」「心地よかった」といった感性的な体験を楽しみ、対価としてお金を支払うのが一般的です。

一方で、投稿した写真が「いかに映えるか」に価値をおくインスタ女子の場合は、そのレストランの雰囲気や料理を味わうことよりも、そこで提供されるモノを「被写体」として捉え、その写真をSNSにアップし、人々の「いいね!」を求めています。その時、その場の雰囲気を感性的に楽しむのではなく、SNSを通して、その場にいない他者から「いいね!」と思われることで、「いい経験ができた」と頭の中で想像する。体験ではなく脳内のイメージに対しての満足感。つまり、観念的な快感や満足感を得ているということが、インスタ女子の特長であると考えています。

正義の暴走か、公への貢献か ~自粛警察とは~

(編集部)インスタ女子はSNSの普及とともに一般的にも広く認知されていますが、昨年から続くコロナ禍、そして3回目の緊急事態宣言で閉塞感がただよう中、最近では、「自粛警察」といった言葉も多く聞かれますね。

(森先生)昨年から続くコロナ禍において、政府の自粛要請に応じない個人や商店に対し、正義感から私的に取り締まりや攻撃を行う「自粛警察」という言葉を、主にメディアやSNS上でよく耳にするようになりました。「自粛警察」は、時に行き過ぎた言動が問題として取り上げられることも多いですが、自分が信じる「正しさ」を自分以外の人々に守らせることによって、自分自身のことを「世の中にとって良いことをしている倫理的で道徳的な人間だ」と感じています。「自粛警察」とは、コロナ禍において過剰に自粛を促す人々であると一般的には定義されていますが、その心理を読み解くと、義憤に駆られて過剰に自粛を促すことで、「正しいことをしている自分は、多くの人々から評価されている」と想像し、快感や満足感を得ているとも言えるでしょう。

SNSが経験の観念化を拡張している?

SNSが経験の観念化を拡張している?
(出典:shutterstock)

社会の共通項としての「観念的快」

(編集部)私たちは他者からの認識や評価によって「快感」や「満足感」を得ているということですか。

(森先生)一般的な社会通念において「適切である」「評価が高い」などと他者からみなされることでもたらされる満足感・快感を、社会学的に「観念的快」と定義しています。「自分がそのように想像する」ことで得られる観念的な快感であるため、「料理を食べて美味しいと感じる」「美しいものをみて感動する」といった体験を通じた感性的な快感とは対極にある「快」の感情ですね。

また前提として、インスタ女子と自粛警察の例で述べたような「他者から自分がよく見られることを想像することで満足や経験を得る」こと、つまり「観念的快」を求めること自体は、何も珍しいものではありません。人間が社会の中で行きていくために非常に重要な行動であり、「人からよく思われたい」「褒められたい」など、他者の目を通して自分の行動を評価することは、社会を構成する条件のひとつであると考えられています。なぜなら、その社会を構成する人々が「こうであるべき」と頭のなかで思い描く観念である「道徳や規範」から逸脱しない行動をすることで、秩序が保たれている面もあるからです。

キーワードは「みんな」。インスタ女子に見る「観念的快」

(編集部)社会的秩序の維持には「他者からどう見られるか」という観念的快も必要であるということがよく分かりました。では、インスタ女子に見られる「観念的快」のメカニズムとはどのようなものでしょうか。

(森先生)冒頭と同じくレストランの例で考えると、インスタ女子の快感は、食事を楽しんでいる「その時」ではなく、インスタにアップした料理の写真に「いいね!」が発生した時。インスタ女子に見られる「観念的快」の感情は「みんな」というキーワードで説明することができるでしょう。「みんな」のなかで人気のレストランに行き、「みんな」が食べているものを自分も注文し、「みんな」に好まれそうな構図でそれを写真に撮り、インスタに投稿することで「みんな」と同じであることを示し、「いいね!」をもらう。「みんな」からのたくさんの「いいね!」が集まることで、ここにいない不特定多数の「みんな」が自分の体験を認め、褒めてくれるであろうと予測・想像し、快感を得る。このことから、インスタ女子における「観念的快」とは、「みんなという他者」の目を介した想像上の快感だといえます。

「権威主義」に通ずる自粛警察

(編集部)自粛警察はどのように考えますか?

(森先生)インスタ女子の場合は、「みんな」というキーワードで説明しましたが、自粛警察に見られる大きなポイントは「正しさ」です。「多数の人が信じていること」に正しさを認める人々は、多数派がやっていることを自分もすることで「自分は正しいことをしている」という安心を得ているのです。そして、正しさのもう一つの根拠となるのは「権威」です。例えば国家は、権威の最たるものですね。自粛警察が意図してるのは、「国家」という公的なものに権威を認めて、その権威が示すことに従い行動する自分こそが「倫理的で道徳的な人間だ」と感じることができ、権威から認められている存在だと想像しているといえます

一方では「みんな・多数派」という権威、一方では「国家・公共的なもの」という権威を根拠にしながら、自分がそこから認められる存在だと想像することで、快感を得るという「権威主義」は、社会学において一つの大きなテーマです。戦後の民主化の過程で薄れていったというイメージがありますが、その本質は脈々と存在しつづけています。

一見すると全く違うように見える「インスタ女子」と「自粛警察」ですが、「みんな・多数派という権威」そして「国家という権威」に認められていると想像することで満足し、快感を得るという点において、両者には共通項があるといえるでしょう。

SNSによって加速化する、経験の観念化

(編集部)インスタ女子を代表例に、近年のSNSの急速な普及は、「観念的快」への欲求を加速させているのでしょうか?

(森先生)消費の領域には、高額のブランド品購入のような、他者の目にどう映るかを前提とした行動もありますが、日常的な飲食の場に、「そこにはいない他者に自分はどう映るか?」という観念的な視点が入り込んできたのは、やはりSNSの普及ではないでしょうか。だれもが手軽に発信できるSNSというツールを手にしたことで、「観念的快」への欲求が加速した側面は大きいと思います。

「観念的快」の欲求は元々あったものですが、それが消費のいろんな場面にも拡大する。「観念的快」への欲求が大きくなってきています。

「観念的快」のその先に

買い物街に入る前に、自動赤外線温度計で温度を測ろうとする女性。 COVID-19の世界的流行の人を識別するために使用する赤外線温度計。
(出典:shutterstock)

重大犯罪と「観念的快」の関係性

(編集部)先生の研究の中で2016年におきた「相模原障害者施設殺傷事件」を「観念的快」との関わりで取り上げています。

(森先生)事件の加害者の思想については、裁判記録などから推察する限り、彼なりに世の中を憂い、より良い世界になったらいいと考えている側面はあったようです。それがどういう経緯を経てかはよく分かりませんが、「施設の入所者の方たちは、国に貢献できていないのではないか」と独善的に考えるようになっていきます。ここに、「国家」という権威に対して、自分の考える「善」を実行することで、貢献をしたい、褒められたいという、過剰な「観念的快」の意図が感じられます。

そしてもうひとつのポイントは、行き過ぎた「観念的快」に「独断的・ひとりよがり」という要素が加わったことです。国家という権威から認められたいという権威主義に、非常に強い独断的な思想が加わった結果、自らの凶行をも「善」と思いこんでしまったのではないでしょうか。「観念的快」とは社会秩序を維持する要素の一つだと説明しましたが、それが行き過ぎ、かつ独断的・独善的な思想が加わると、社会秩序を壊しかねない可能性を示しています。

これからの社会はどう変化していくのか

(編集部)withコロナの新しい生活様式の提唱によって、人と直接触れ合うことよりも、ネット上でのつながりがますます加速すると考えられます。「観念的快」の拡張の観点からみて、社会はどう変化していくか、先生はどう見ていますか?

(森先生)現状のように、オンライン上でしか繋がれず、実際に対面する機会が少ない状況がどこまで続くのか分かりませんが、仮に、コロナ以前のように接触ができるようになったとしても、大学でのオンライン授業やリモートワークといった仕組みはきっと残り続けるでしょう。より効率化を求める社会からは逃れられないのではないでしょうか。これはコロナ禍に限ったことではありませんが、日常をどれだけ合理的に、無駄や隙間がないように過ごすか、を重視する風潮が強くなっているように思います。スマホやSNSが普及し、絶えず隙間なく何かをすることが可能となり、充実した1日を過ごしていると錯覚をしている。これも、実際の体験ではなく「観念的なもの」が占める割合が大きくなっている、という事例のひとつでしょう。

「自分で感じる」ことができない現代社会

(森先生)もうひとつ、「感性的」なものよりも「観念的」なものを優先する、象徴的な事例があります。最近では、教室に入るのも、飲食店での食事の際にも、入り口での「検温」が当たり前になっていますね。そうすると「今日は調子がいいな」とか「なんとなく体調が悪いな」と自分で感じるのではなく、機械に教えられる。「機械による検温がないと、自分が健康かどうかさえ分からない」という現象がおこってくるのです。

インスタ女子や自粛警察の事例と同様に、「観念」に重きが置かれ、自身の「感性」がなおざりにされた結果、自分で感じることよりも、「他者」や「機械」などの「鏡に映る自分」を信じてしまう。今後ますます加速するであろう「観念的快」の拡張に伴い、現代は「自分で感じる」ことが難しくなっている社会であるということを認識する必要があるのではないでしょうか。

まとめ

インスタ女子と自粛警察、一見すると全く違うように見えるSNS時代の代表的な事例が、「観念的な快」への欲求という共通項でつながっており、さらに「観念的快」は私たちの身近な生活全般にまで拡張している、ということがよく理解できました。

今や自分の体調でさえも実際に体で感じるのではなく、機械を通さないと把握できないようになっているのではないか、というお話が印象的でした。対照的な「観念的快」と「感性的快」。どちらが良い、悪いではなく、現代の社会は「観念的快」を優先しやすい構造であるということを意識する必要性に改めて気付かされました。

この記事をシェアする!

プロフィール

森 真一

森 真一 (もり しんいち) 追手門学院大学 社会学部 社会学科 教授 博士(社会学)専門:理論社会学

1999年 関西学院大学大学院 社会学研究科博士課程後期課程修了
1999年~2006年 皇學館大学 助教授・准教授
2006年~2014年 皇學館大学 教授
2014年~ 追手門学院大学 社会学部 社会学科 教授
2018年~ 追手門学院大学 大学院 現代社会文化研究科 現代社会学専攻 教授
主な著書に、『スロー・シンキング ~「よくわかっていない私」からの出発 』(単著, 2019)、『友だちは永遠じゃない -社会学でつながりを考える 』(単著, 2014)、『どうしてこの国は「無言社会」となったのか 』(単著,2013)、『「お客様」がやかましい』(単著,2010)など多数

研究略歴・著書・論文等詳しくはこちら

取材などのお問い合わせ先

追手門学院 広報課

電話:072-641-9590

メール:koho@otemon.ac.jp